伯耆 米子城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大小天守台

イメージ 2②大天守台

イメージ 3③二の丸枡形

イメージ 4④旧小原家長屋門

イメージ 5⑤石垣

イメージ 6⑥湊山遠景


訪問日:1990年3月

所在地:鳥取県米子市

 吉川広家は永禄4年(1561)吉川元春の3男として生まれる。初め経信、経言と名乗り、元亀元年(1570)10歳で尼子勝久討伐戦にて初陣、天正11年(1583)小早川隆景の養子元総(毛利秀包)とともに秀吉の人質となる。元総は秀吉に取り立てられたが、広家はすぐに返されたそうだ。

 天正14~15年の九州征伐に出陣した父と長兄が相次いで亡くなり、27歳で家督を継いだ。翌年には宇喜多秀家の姉を正妻に迎えている。この頃には秀吉の信頼も得て従四位下侍従となる。

 天正19年(1591)秀吉の命により安芸日野山城から出雲・伯耆・安芸・隠岐に14万石に移り、月山富田城に入り、後に米子城を築いて移った。

 関ヶ原合戦では東軍につくことを主張し家康に内通したが、毛利輝元は西軍の盟主に担がれる。しかし結果東軍の勝利に終わり、広家は毛利本家存続のため奔走し、防長2カ国に減封となり、広家自身は本家より岩国3万石を与えられて米子城を離れた。

 米子城には11歳の中村一忠が入る。一忠の父一氏は東軍に属したが合戦直前に病死、本戦では叔父の一栄とともに戦功を挙げ、戦後米子城17万5千石を与えられた。一忠は広家の天守の横にさらに大きな天守を建て、五重と四重の天守が並び建った。

 しかし、慶長8年(1603)後見役の横田村詮を暗殺、怒った村詮の子や客将柳生宗章(宗矩の兄)らが出丸の飯山に立て篭り、隣国出雲の堀尾氏の助勢を受けて鎮圧した。家康は激怒したが14歳という若年だったこともあってか暗殺の首謀者と側近の切腹という処分であった。

 翌年には叔父の一栄も亡くなる。一忠は家康の養女を妻としていたが、嗣子に恵まれず若干20歳で急死し、中村家は断絶となる。ただ側室の子がおり、後に因幡・伯耆を領した池田光仲の家老池田知利の客分となり、子孫は鳥取藩の陪臣として明治維新を迎えている。