筑後 久留米城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸石垣南西部

イメージ 2②本丸石垣南面

イメージ 3③巽櫓石垣

イメージ 4④東御門

イメージ 5⑤艮櫓から東御門

イメージ 6⑥筑後•宝満川合流点


訪問日:2003年1月

所在地:福岡県久留米市

 天正15年(1587)高良山の出城に毛利秀包(ひでかね)が本格的な築城を行った。

 秀包は毛利元就の9男として永禄10年(1567)に誕生している。元就71歳の時の子で、輝元は甥ではあるが14歳も年長である。

 5歳の時に備後大田氏の懇願により後継となり、大田元綱と名乗る。その後、天正7年(1579)34歳年長の兄の小早川隆景の養子となり、元服して小早川元総(もとふさ)と名乗った。

 天正11年(1583)17歳の時に吉川広家(23歳)とともに秀吉の人質となり、秀包と改名する。秀吉に可愛がられて天正13年には河内で1万石、その年の四国征伐の功により伊予大津(大洲)城3万5千石、天正15年(1587)九州征伐で養父隆景が筑前・筑後を領すると久留米城に7万5千石を与えられた。

 その年の佐々成政の失政による肥後国人一揆では21歳にして討伐軍の総大将として出陣、同い年の立花宗茂とともに戦功を挙げ、宗茂と意気投合して義兄弟の契りを結んだ。翌年に羽柴氏、2年後の天正17年には侍従に任官し、豊臣姓を下賜され、「羽柴久留米侍従」と呼ばれた。

 妻は大友宗麟の娘・桂姫(マセンシア)で、その影響を受けて受洗、洗礼名をシマオとした。天正19年(1591)には甲良山座主の麟圭・了巴父子を誘殺している。しかしのちに麟圭の末子を召出して座主・尊能としている。

 天正20年(1592)からの文禄の役でも宗茂とともに戦功を挙げ、加増されて13万石、筑後守に叙任される。

 文禄3年(1594)秀吉の養子・秀俊(小早川秀秋)が新たに隆景の養嗣子となり廃嫡されて別家を創設、慶長の役でも手柄を立てた。

 関ヶ原合戦では西軍に与し、宗茂とともに近江大津城を攻略して入城するが、関ヶ原で秀秋の内応もあり、西軍は敗れ、秀包は大坂城に撤退した。

 留守を衝いて黒田如水や鍋島直茂が久留米城を攻撃、開城に追い込まれ、正室桂姫と嫡男元鎮を黒田家の人質とされる。秀包は改易され、輝元から長門国内に所領を与えられ、小早川姓を嫌って毛利姓に戻るが、翌慶長6年(1601)35歳の若さで病没した。

 筑後には田中吉政が32万石で入り、立花宗茂がいた柳川城に入り、久留米城には5男吉信を置いた。しかし、吉政の跡を継いだ忠政が元和6年(1620)嗣子を残さず36歳で亡くなると、無嗣断絶とされ、柳川城には宗茂が復帰し、久留米城には丹波福知山城から有馬豊氏が21万石で入城した。


以下、現地案内板より

久留米城

 戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって興亡の歴史を綴りながら、元和七年(1621)有馬豊氏丹波福知山より転封入城し、以降廃藩に至るまで十一代二百五十余年の間、有馬家累代の居城として藩府が置かれていました。
 本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活用したすこぶる険要の地にあります。築城法は平山多聞造りで、高い白土の城壁にそびえたつ二層と三層の七つの櫓があり、本丸東南隅の三層建の巽櫓は壮大な偉容を誇っていました。
 現在は石垣だけが残り、城内には有馬三氏を祀る篠山神社や、有馬家資料を展示する有馬記念館があります。春は花見、六月はしょうぶ、八月二十五日には鈴虫祭と、市民の憩いの場となっています。