陸奥 阿津賀志山防塁 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①二重堀

イメージ 2②二重堀

イメージ 3③案内板


訪問日:1998年9月

所在地:福島県伊達郡国見町

 奥州藤原氏3代目の秀衡は陸奥守・鎮守府将軍の官職を得て、名実ともに奥羽の覇者となった。鎌倉政権の確立を目指す源頼朝は文治2年(1186)藤原氏が直接京都の朝廷に行なっていた貢馬や献金を鎌倉経由とするように要求し、秀衡はそれに従った。

 秀衡は頼朝との争いに敗れ保護していた源義経を主君として頼朝に備えるよう後継の泰衡たちに遺言して文治3年(1187)死去する。翌年、頼朝の要請により泰衡に対し義経追討の宣旨が下されるが、泰衡は遺命に従いこれを拒否した。

 頼朝は文治5年(1189)泰衡追討宣旨の発給を朝廷に奏上、圧力に屈した泰衡は同年義経を攻めて自害に追い込む。さらに泰衡の方針に反対した弟の忠衡を討った。

 後白河法皇は問題は解決したとして頼朝に泰衡追討は戦闘停止の院宣を下し、さらに朝廷は泰衡追討延期を命じる宣旨を送るが、頼朝は宣旨なしでの出兵を決意、吾妻鏡によると28万騎の兵を集めて出陣した。

 泰衡は多賀城で指揮を取り、庶兄国衡は伊達郡阿津賀志山に城を築き、前面に二重堀を設けて2万兵で迎え撃つが敗れ、国衡は和田義盛に討たれた。知らせを受けた泰衡も平泉に向け撤退する。


以下、現地案内板より

国指定史跡 阿津賀志山防塁  指定 昭和56年3月14日
 
 この遺跡は、文治5年(1189)の奥州合戦に、平泉の藤原泰衡がその異母兄国衡を将とし、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防塁遺構で、「吾妻鏡」には「口五丈堀」と記載されており、地元では「二重堀」と呼ばれている。
 防塁跡は、土塁と空堀からなり、阿津賀志山中腹から南下し阿武隈川の旧河道にある滝川までの約3.2kmにわたって所在する。防塁跡の一部は開発等によって失われているが、各地区に二重の堀跡と三重の土塁が現存している。
 この防塁付近一帯の地は、文治5年8月8日から10日にかけて激戦が展開された古戦場であり、本遺跡は、鎌倉幕府の全国支配の帰趨を考える上で極めて重要なものである。

平成2年3月  国見町教育委員会