陸奥 利府城(利府在所) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①主郭

イメージ 2②主郭

イメージ 3③主郭

イメージ 4④主郭

イメージ 5⑤城跡からの眺望

訪問日:1990年代

所在地:宮城県宮城郡利府町

 伊達氏13代尚宗の次男で稙宗の弟の景宗は留守郡宗(伊達氏出身で景宗の大叔父)の婿養子となり、留守氏16代当主となった。

 兄と甥晴宗が争った天文の乱(1542~48)では晴宗に味方し、主力として稙宗方の国分氏らと戦った。

 ところが景宗没後、家督を継いだ嫡男顕宗は晴宗と対立し、弘治2年(1556)晴宗の支援を受けた留守氏一族の村岡常継の攻撃を受け、顕宗は常継の妹を側室に迎え和睦、宗綱という実子にも恵まれる。

 しかし、晴宗や家臣の一部はなおも顕宗に圧力をかけ、ついに永禄10年(1567)晴宗の3男政景への家督相続を強要し、宗綱を神楯城主・高城周防守の養子として追い出してしまう。

 これに怒った常継は永禄12年(1569)挙兵して政景と戦うが、翌年利府城は落城して村岡氏は滅亡する。

 政景は利府城を修築して岩切城から移り、居城とする。伊達氏に対抗する大崎氏や葛西氏との最前線としての移転である。

 天正18年(1590)小田原陣には大崎・葛西氏への備えのため参陣できなかったが、秀吉は留守氏を独立の大名とみなして所領を没収、これにより留守氏は完全に伊達氏の家臣として組み込まれた。


以下、現地案内板より

利府城跡

 利府城ゆかりの留守氏の重臣村岡氏の居城でしたが、永禄12年(1569)留守氏の後継者問題で伊達系留守氏と対立、翌年、この城で戦い、滅亡したといわれています。
 その後、伊達政宗の叔父にあたる留守政景が20年間この城を本拠地とし、戦乱の時代に活躍しました。
 なお館山公園整備事業に伴う発掘調査では、平場から多数の掘立柱建物跡や平場をつくる際の整地、また、焼き物(陶器など)発見されました。

利府町