大和 天河大弁財天社/南朝黒木御所 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天河大弁財天社

イメージ 2②天河大弁財天社

イメージ 3③天河大弁財天社

イメージ 4④天河大弁財天社

イメージ 5⑤南朝黒木御所

イメージ 6⑥南朝黒木御所

訪問日:2014年11月

所在地:奈良県吉野郡天川村

 足利4代将軍義持が後継者を指名することなく応永35年(1428)に亡くなり、くじ引きで次期将軍を選ぶこととなった。候補の4人はいずれも義持の弟(義満の子)で僧籍にあった、

 青蓮院門跡義圓(比叡山延暦寺天台座主、後の将軍義教、35歳)
 相国寺虎山永隆(後の鹿苑院院主、26歳)
 大覚寺門跡義昭(東寺長者、後に還俗して足利尊有、25歳)
 梶井門跡義承 (後の天台座主、23歳)

 石清水八幡宮でのくじ引きの結果、この中では一番年長の義圓が選ばれ、何度か辞退したようだがやがて応諾し、髪の毛が伸びるのを待って還俗して足利義宣と名乗り、翌年に義教と改名し、官位が参議近衛中将に登ったところで征夷大将軍に就任した。

 くじに漏れた弟たちのうち義昭は義教と疎遠になり、猜疑心の強い義教に疑われる。身の危険を感じたのか永享9年(1437)義昭は大覚寺を抜け出して逐電、義教は南朝ゆかりの大覚寺、あるいは関東で反幕府の動きを見せていた鎌倉公方足利持氏と結託したと判断して捜索を開始した。

 やがて義昭は吉野・天川で挙兵したとの情報が入り、義教は南朝の残党、ついに永享の乱を起した持氏とともに結託して挙兵謀反に及んだとして、討伐の綸旨を得て大和に兵を送った。しかし恐らくこれは義教の情報操作で、実際には義昭は四国土佐佐川氏に匿われていたと言われている。

 永享12年(1440)には義昭は還俗して足利尊有(たかもち)と名乗り、九州日向野辺氏の庇護下にあることが判明、義教は薩摩・大隅・日向3カ国の守護の島津忠国に義昭討伐を命じた。忠国は渋ったものの逆らえず、嘉吉元年(1441)3月13日櫛間永徳寺にあった義昭を包囲、逃れられないと悟った義昭は自害した。その3カ月後、今度は将軍義教が赤松満祐に討たれる。

 芸能の神として知られる天河大弁財天社の裏に南朝黒木御所の石碑と供養塔が建てられていた。「黒木御所」は固有名詞ではなく、皮を削らずに黒木を用いて建てられた天皇の御所という意味だそうで、大和では天川の他、十津川、黒渕にあり、南朝の天皇たちがその粗末な御所で過ごされていたとのこと。
 

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