近江 瀬田城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①城跡碑

イメージ 2②雲住寺

イメージ 3③瀬田の唐橋


訪問日:2012年11月

所在地:滋賀県大津市

 天正10年(1582)6月2日早朝、本能寺に信長を討ち取った明智光秀は近江を平定すべく瀬田城主山岡景隆(58)を味方に誘うが、景隆はこれを拒否して城と瀬田の唐橋を焼いて抵抗し、逃走した。

 足止めされた光秀は橋を修理して6月5日に安土城に入った。

 その後は柴田勝家に味方して秀吉と敵対、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると秀吉に降伏し、所領を没収された。

 景隆は信長が足利義昭を奉じて上洛した際にはこれに抵抗したが、後に降伏してからは忠実に仕え、信長や信忠は上洛の行き帰りに瀬田城に宿泊することも多かった。

 

 光秀の誘いに乗らなかったことや、勝家に味方したのもその忠実な性格によるものだろう。


以下、現地城跡碑より

勢多城は山岡城とも呼び建武中永享元年山岡信濃守景房が築く後に三井寺を築き光浄院に葬る其の後九代の裔美作守景隆に至る世々勢多に住す景隆織田信長に仕え三万石を領す天正十年明智光秀信長を本能寺に弑し安土城を取らんと欲し景隆を味方にせんものと使者を立て勧告す景隆固く義を執りて応ぜず橋を焼き西岸の舟を集めて之を絶つ光秀大いに困む時に徳川家康堺の浦にて光秀の乱を聞き東に帰る途通ぜず宇治より間道を経て勢多に至る景隆弟景祐と共に前導して田上山より信楽郷に達せしも土寇ありて路を遮る景隆之を討ち破り徳川の安路を計る後に宝暦九年龍安寺西源院天寧和尚は隠れたる忠誠の勢多城最後の城主従五位下山岡美作守景隆を偲び膳所城主本多下総守康恒に進言す康恒勢多城跡に一宇を建て臨江庵と命名す現在の臨湖庵之なり茲に遠祖の功業を偲び山岡氏一族の碑を建立す
昭和四十年十月十七日  駒井鳴水謹書