陸奥 岩出山城(岩出山要害) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①有備館と庭園

イメージ 2②有備館と庭園

イメージ 3③内門

イメージ 4④伊達政宗像


訪問日:1990年代

所在地:宮城県大崎市(旧玉造郡岩出山町)

 いつ訪問したのかわからなくなってしまった。草木の様子から夏のようだが、それ以外は不明。有備館は震災で倒壊してしまい、現在復旧工事中とのこと。

 政宗以前は岩手沢城といい、大崎家臣の氏家氏の居城だった。天正15年(1587)11月、氏家吉継は同じく大崎家臣の新井田隆景と対立し、吉継は伊達政宗に内通して援軍を要請、政宗は翌16年1月浜田景隆らを派遣、大崎合戦へと発展するが、伊達軍は敗退、吉継も和睦して大崎氏に帰参した。

 しかし、天正18年(1590)秀吉の奥州仕置に大崎氏とともに没落、岩手沢城を失うが、やがて吉継の家臣らが新領主木村吉清に反抗して城を占拠、これがきっかけとなり葛西・大崎一揆となり広がった。

 吉継は翌天正19年5月21日に亡くなっているらしいが、それは政宗が一揆煽動の査問を受けるため上洛して米沢に戻ったその翌日のことであり、口封じかとも思われる。このあたりの経緯を考慮すると政宗が一揆を煽動した可能性は否定できない。

 
以下、パンフレットより

旧有備館及び庭園

 寛文3年(1663)2月岩出山伊達家二代領主宗敏のとき、二の丸の居館が焼失、仮居館を造った。
 それを三代領主敏親が家臣の子弟教育を重視し、元禄四年(1691)に「春学館」と名づけて学問所とし、翌五年に現在地に移し「有備館」と名づけた。
 様式は寄棟茅葺き書院造りで、現存する藩校では日本最古である。
 四季を通じて咲く花が絶えないように配慮して樹木や草花を植え、また、勉学用の灯火に使用する椿油を採るための椿や、机、書架等の修理用の板材にするための栗や桜等も植えられている。

(庭園)
 石州流仙台藩茶道頭清水道竿によって正徳5年(1715)に作庭された。石州流の祖、片桐石州は将軍家の茶道師範をつとめ、茶室作庭に本領を発揮したという。
 岩出山城本丸跡の断崖を借景とし、御中島(茶島)、鶴島、亀子中島(亀島)、兜島を配した廻遊式池泉庭園である。
 作庭時の領主は四代村泰である。三代敏親とともに代を重ねて京都冷泉家から夫人を迎えている。

(伊達政宗の移封と岩出山)
 伊達政宗は、天正19年(1591)の奥州仕置きで、豊臣秀吉の命によって旧大崎、葛西領へ移封となり、徳川家康によって修築された岩手沢城に米沢より移り、岩出山城と改めた。
 政宗は、慶長8年(1603)まで岩出山城を居城としたが、関ヶ原の戦いの後に家康より刈田郡を与えられ、領地の中心地となる仙台城に移った。その後岩出山城は廃されて岩出山要害となり、政宗の第四子の宗泰が領主(1万5千石)となった。