陸奥 寺池城(登米要害) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①城跡碑

訪問日:1998年1月

所在地:宮城県登米市(旧登米郡登米町)

 写真が少なくて残念、ここは現在は「とめし」だが、訪問当時は「とめぐんとよままち」だった。「とよま」はアイヌ語が語源で、郡名も元は「とよまぐん」で「とめ」と訓んだのは、明治になってからである。

 葛西・大崎氏は天正18年(1590)小田原征伐に参陣しなかったという理由で所領を没収され、木村吉清に与えられた。

 吉清は寺池城を本拠に領国経営をはじめたが、葛西・大崎の旧臣はその統治に反発し、まず大崎氏旧臣の氏家吉継が元居城の岩手沢城(岩出山城)を占拠したのをきっかけに領内全土に広がる。

 蒲生氏郷と伊達政宗がこれを鎮圧にあたるが、この一揆を煽動したのは政宗自身であるとの訴えがあり、氏郷は単独で一揆勢が奪った名生城を攻略し、政宗に備えて籠城した。

 政宗も単独で行動し、高清水城や宮沢城を攻略し、佐沼城の木村父子を救出して両名を名生城の氏郷に送り届けた。氏郷は警戒を解かず、政宗に人質を要求し、伊達成実・国分盛重を提出させた。

 政宗は上方に呼び出され、秀吉の査問を受けたが、主張が認められて米沢に戻り一揆掃討戦を展開、重臣らの討死を出しながらも寺池城を攻略し、一揆は終結した。政宗は一揆の首謀者らを皆殺しにした。

 一揆終結後、政宗は荒れ果てた葛西・大崎の旧領を与えられたが、一方で長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田郡を没収され、事実上減封となったことから、一揆煽動の疑いが完全に晴らされたとは言えまい。政宗にとっては目障りな木村吉清の排除には成功したものの、自身も本拠を奪われてしまうという結果となった。

当時の案内板は一揆の頃のことは無視している。


以下、現地案内板より

寺池城址(別名 臥牛城)
 寺池城は慶長10年(1605)初代登米藩主伊達宗直公の築城によるもので以来伊達家13代(約300年)にわたる居城であったが明治維新にいたり解体されたものである。
 第4代藩主伊達式部宗倫公(仙台城第3代藩主伊達綱宗公の異母兄)の時代涌谷藩と度重なる領土の境界の紛争がありこれがテレビドラマ「樅の木は残った」で知られる伊達騒動(寛文事件)の起因をなしたと伝えられている。
 現在城跡の一角にある懐古館には伊達家にゆかりの文化財を中心に鎧、兜、刀剣、書画等を陳列して一般に公開している。

登米町