山城 二条新御所/妙覚寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①御所跡碑

イメージ 2②御所跡碑

イメージ 3③旧妙覚寺付近


訪問日:2004年11月(二条新御所) 妙覚寺(2012年12月)

所在地:京都市上京区

 信長の嫡男信忠は明智謀反の報を知ると宿所の妙覚寺から本能寺に駆けつけようとするが、すでに本能寺は陥落しており、信忠は妙覚寺よりは防御に適した皇太子誠仁親王の御所である二条新御所に籠城し、奮戦するが如何ともし難く、信長の後を追って討死する、享年26歳。

 信忠はすでにこの時信長から家督を譲られており、後継者の地位を確立していた。明智光秀が信長と信忠を同時に討ち取ったことでこのクーデターはこの時点では完璧に遂行されたといえよう。

 

 この時信忠と行動を共にしていた信長の弟長益(有楽)は二条新御所から脱出しており、もしこの時信忠も生き残っていれば、その後の状況は大きく変わっていたであろうが、どうやら信忠はよくも悪くも逃げるということを考える人ではなかったようだ。

 ところで、信忠の婚約者といえば武田信玄の娘松姫だが、その後の両家の対立からこの縁談は破談になっていた。しかし、武田家滅亡後、信忠は八王子に落ちのびていた松姫に迎えの使者を出し、その上洛の途上、本能寺の変が勃発し、二人はついに一度も顔を合わせることがなかったという。この時、松姫は22歳。一方で信忠の子三法師の母は松姫との説もある。


 この年の秋、松姫は八王子の心源院で出家し「信松尼」と名乗る。いずれにせよ松姫にとっては両家の対立がどうあろうと、またたとえ遠く離れていようと自分は信忠の正室であると確信していたのだろう、だからこそ両家の断絶後も他家に輿入れすることもなく、22歳の若さで出家をして信忠や実家武田家の冥福を祈って暮らすことを決意したのであろう。「信松尼」という名前にその思いを強くした。信松尼は元和2年(1616)56歳で亡くなっている。