周防 大内氏館/築山館 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①館跡龍福寺

イメージ 2②整備中の館跡

イメージ 3③現地復元図

イメージ 4④築山館跡

訪問日:2002年5月

所在地:山口県山口市

 厳島で陶晴賢を斃した元就は、大内家の本拠山口へ侵攻する。晴賢が擁立した大友宗麟の実弟大内義長は、高嶺城に籠ろうとするが叶わず、兄のいる九州に逃れようとするが毛利軍に海上封鎖されそれも叶わず且山城に籠城したもののやがて降伏、自害を命じられる。


 これによって最盛期には周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の守護職を兼ねた大内氏は滅亡、元就は長門・周防を平定した。弘治3年(1557)4月、元就61歳のことである。

現在は見事に整備・復元されているようだが、当時は保存修理事業実施中であった。


以下、現地案内板より

史跡(大内氏遺跡附大内館跡凌雲寺跡)大内館跡  昭和三四年一一月二七日国指定

ここは大内氏二四代弘世が正平一五年(1360)頃それまでに館があった大内御堀から山口に移り館を定めたところです。
大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富と文化を誇ったといわれています。天文二〇年(1551)大内氏三一代義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。
その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は弘治三年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。
館は百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在はほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。

管理団体 山口市


史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)

ここは大内氏二八代教弘が一五世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。築山館は教弘以後歴代当主の居館となったところです。中世の連歌師宗祇は 池はうみこずゑは夏の深山かな と詠んでおり、この句からかつて豪華であった庭の様子が忍ばれます。
築山館は大内氏滅亡後朽廃しましたが、園池の跡は残っていたといわれています。しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
江戸時代末の絵図によると、築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられています。
現在指定地内の北西隅にかぎの手に土塁築地が残っていますが往時の館の規模を示す遺構として重要です。
また、指定地内には八坂神社本殿が国指定重要文化財と築山神社があります。

管理団体 山口市