丹波 八木城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸土塁

イメージ 2②本丸石垣

イメージ 3③本丸石垣

イメージ 4④堀切

イメージ 5⑤城下

イメージ 6⑥内藤ジョアン碑

訪問日:2011年5月

所在地:京都府南丹市、亀岡市

 松永久秀の弟長頼は内藤国貞の娘を娶り、内藤宗勝と名乗る。兄とともに三好家の家臣として活躍するが、永禄8年荻野直正の黒井城を攻撃中に討死する。


 その息子忠俊(国貞の遺児との異説あり)はその前年にキリスト教に入信し、ジョアンと名乗っていた。ジョアンはその後、足利義昭に与して織田氏に敵対するが、明智光秀により、八木城は落城し、所領を没収される。

 

 だが、本能寺の変の後、秀吉に仕えた親族の小西行長に仕え、小西姓を名乗り、文禄の役における明との和議交渉では使者として北京に赴いている。


 関ヶ原で行長は斬首され、ジョアンは加藤清正や前田利長の客将として過ごすが、キリシタン追放令により、高山右近や妹のジュリアとともに呂栄(フィリピン)マニラに追放され、寛永3年に亡くなっている。


以下、現地案内板より

八木城

 八木城は、八木南西部に位置し、京街道(山陰道)を眼下に望む口丹波随一の要害である。丹波国内では、八上城、黒井城と並んで三大城郭のひとつといわれ、中世の山城としては有数の規模を誇る。
 丹波守護代内藤氏の居城として伝えられ、15世紀~16世紀に丹波地方の中心として機能した。戦国時代、キリシタン武将としてルイス・フロイスとも親交のあった内藤如安は有名で、文禄・慶長の役のおり、明側との交渉に当たった。城は明智光秀の丹波侵攻により没落したが、江戸時代に亀山藩が幕府に提出した絵図の模写によると、最高所の本丸は四方に野づら積みの石垣が描かれている。また、本丸の南西端に金の間と書かれた一段と高い部分が張り出しているが、これは、天守閣の祖形と考えられる。現在は、石垣の一部や尾根づたいに曲輪跡が残るのみであるが、当時の雄大な様子を伝えている。

八木町・八木町教育委員会