播磨 端谷城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①二の丸から本丸

イメージ 2②本丸から二の丸

イメージ 3③本丸から二の丸

イメージ 4④堀切

イメージ 5⑤遠景


訪問日:2003年12月

所在地:神戸市西区

 端谷城は衣笠城、寺谷城ともいい、三木落城の1ヶ月後に落城したというが、この城の攻防については「別所記」「播州太平記」で取り上げられるのみで詳細はわからない。

 

 しかし、織田側から見れば記録に残すほどでもない事象であっても敗れ去った者にとって忘れられていくのは耐えられないとの思いからこれらの軍記物として地元で伝えられてきたのであろう。ただ、秀吉がこの城攻めに参加していたかどうかは非常に怪しい。


以下、現地案内板より

端谷城(別名衣笠城)

 当城は、衣笠氏累世の居城、端谷城であります。端谷城は、戦国時代以前における中世の山城の形態をとり、東西両面に天然の断崖、北面に人工の大堀切、さらには城域内各所に土塁、空堀、侍溜り、および侍走りを設けるなど、南側正面以外には容易に攻めがたい、まさに要害の城であります。
 衣笠氏は、三木の別所氏らとともに、播磨の名族赤松氏の出身であり、ことに衣笠五郎左ヱ門範弘は、当時置塩の赤松氏が浦上氏のために衰えたとき、忠義を尽し、また、永正十七年(1520)将軍足利義晴が幼少のとき、衣笠氏の館に匿まわれたということも記録にあります。ついで範弘の長子衣笠豊前守範景)は、よく父の遺風をついで、領民を広く愛するなど、仁政を施したということであります。
 ときに天正六年(1578)中国征伐を意図する織田信長は、東播の雄である別所長治を三木城に攻めたて、衣笠範景は城内の各砦を固め、自らは端谷城に立てこもったため、櫨谷の在の百姓たちは、義によってともに籠城し、野口、神吉、志方、高砂、淡河の諸城とともに別所氏幕下の有力な支城となったということであります。
 信長の武将羽柴筑前守秀吉は、侍大将織田七兵衛信澄、明石与四郎則実らをもって端谷城を攻めたて、一方難攻の城内においては、範景、津村市助らが勇戦したが、戦況は好転せず、結局秀吉の再度にわたる猛攻により、ついに別所氏と運命をともにし、天正八年(1580)二月十五日落城したと伝えられ、以来今日に至っているのであります。
 ここに衣笠氏の遺徳を偲び、その先人の遺した貴重な遺跡文化財を長く後世に保存し、伝えなければならないと思うのであります。