ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①久宝寺城跡②城跡碑③案内板より④麟角堂創建遺址碑⑤盛親物見松遺址碑

 

訪問日:2024年8月

 

所在地:大阪府八尾市

 

 久宝寺という地名は、飛鳥時代に聖徳太子が当地に久宝寺を創建したことに因む。久宝寺は鎌倉時代以降に廃絶し、許麻神社境内にあった太子所縁の久宝寺観音院も明治の神仏分離により廃絶となった。

 

 室町時代の渋川郡久宝寺村は清和源氏畠山氏一族の安井氏が領していた。文明2年(1470)本願寺8世・蓮如が久宝寺にあった慈眼寺(のちに八尾へ移転)を拠点に布教活動を始める。

 

 門徒を増やした蓮如は、明応年間(1492-1501)新たに久宝寺に西証寺を建立する。寺と目と鼻の先に城を構える久宝寺城主・安井氏は所領支配の安定のため、これに協力した。

 

 天文4年(1535)近江国顕証寺から蓮如の6男・蓮淳が新たに住持となると、顕証寺と寺号を改め、その周囲に土塁と堀を巡らし寺内町を形成した。寺内町支配権は顕証寺が持ち、安井氏がこれを任されていた。

 

 しかし、織田信長が畿内の支配者となると安井氏は信長に従い、元亀元年(1570)石山合戦が始まると、久宝寺城は本願寺方に攻め落とされ、安井定重・定正兄弟は討死する。

 

 天正8年(1580)石山合戦の講和に際し、講和派の顕証寺と抗戦派の慈眼寺が激しく対立する。安井氏は定重の末弟あるいは子と思われる安井定次が継ぎ、信長に所領を安堵された。

 

 慶長7年(1602)本願寺の東西分裂に際し、顕証寺(本願寺派)と慈眼寺(大谷派)も両派に分かれ、慶長11年(1606)寺内町を支配する顕証寺と安井氏に対抗して慈眼寺は八尾に移っていった。

 

 なお、元和元年(1615)に完成した大坂・道頓堀掘削の中心人物である安井治兵衛・九兵衛(定吉・道卜)兄弟は、定正の子といわれている。

 

 また、完成を前に大坂の陣で討死した成安道頓は、かつては安井定次の子で、治兵衛・九兵衛の従兄弟と考えられていたが、摂津国平野郷の成安氏出身とする説が有力となっている。

 

 麟角堂は安井氏の祖・渋川満貞が創建した講筵で、天正3年(1575)安井定重が堺の儒学者・今村道和を招き再興した。江戸時代には伊藤仁斎や東涯が招かれ、大正にも再び復興したという。

 

 

以下、現地案内板より

 

久宝寺城址

 

 久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年7月14・5日は城内で精霊祭を催し、領民は5日間盆踊りをしたと言う。

 満貞の嫡子の満重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、天正5年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残している。

 

「久寶寺村誌」より   八尾市教育委員会

 

 

長宗我部物見の松

 

 徳川幕府が豊臣家を滅ぼした大坂の陣は、慶長19年(1614)の冬の陣と慶長20年(1615)の夏の陣からなり、夏の陣における八尾・若江の戦いでは、大阪方の木村重成、長宗我部盛親の軍勢と、徳川方の藤堂高虎、井伊直孝の軍勢が激しい戦闘を繰り広げた。

 久宝寺や八尾、萱振では、長宗我部盛親と藤堂高虎の軍勢が対峙し、長宗我部軍が優勢であったが、若江において木村重成の軍が敗れたことによって大坂城に退いた。

 この戦いで久宝寺に陣を張った長宗我部軍が、天高く伸びる老松に上り、八尾にいた藤堂軍の動静を探ったと伝えられており、それがかつて当地にあった松とされている。

 

平成26年8月 八尾市教育委員会

 

 

 

①本堂②表門③寺内町④土塁跡⑤堀跡⑥案内板より

 

訪問日:2024年8月

 

所在地:大阪府八尾市

 

 実順は、明応3年(1494)本願寺8世・蓮如の11男として生まれた。母は蓮如5人目の妻で、河内守護・畠山氏一族の畠山政栄の娘・蓮能尼。

 

 同母兄弟に、近江堅田称徳寺・実賢(9男)、河内古橋願得寺・実悟(10男)、大和飯貝本善寺・実孝(12男)、河内枚方順興寺・実従(13男)と、同母姉妹が2人いる。

 

 明応8年(1499)蓮如示寂後は、大坂御坊(石山本願寺)にて母に養育され、永正2年(1505)出家するとともに、異母兄の本願寺9世・実如(蓮如5男)より河内久宝寺の西証寺住持に任ぜられる。

 

 しかし同年、畠山氏ら有力守護大名が管領・細川政元に対し蜂起すると、かつて本願寺を擁護した政元の要請を受け、実如は畠山氏の領国である能登・越中そして河内への侵攻を門徒に命じた。

 

 北陸はともかく、摂津・河内の門徒衆と河内畠山氏の関係は良好であったため、畠山氏出身の蓮能尼がこれに異議を唱え、当時17歳の実子・実賢を擁立して法主交替を求めた。

 

 これに対し、実如は永正3年(1506)坊官の下間頼慶を派遣して蓮能尼とその子の実賢・実順・実従を捕縛・破門する(河内国錯乱)。当時加賀にいた実悟と大和の実孝は難を逃れた。

 

 永正6年(1509)曇華院門跡の仲介により破門を解かれて西証寺住持に復帰、異母兄・蓮淳(蓮如6男)の娘・妙祐を妻とし、実真、妙意(実従室)が生まれた。

 

 しかし、永正15年(1518)25歳で示寂、跡を継いだ実真も享禄2年(1529)13歳で早生し、近江国顕証寺(近松御坊)の蓮淳が西証寺の住持も兼ね、寺号も近江と同じ顕証寺と改められた。

 

 

以下、現地案内板より

 

久宝寺寺内町を囲む掘と土塁

 

 久宝寺寺内町は、顕証寺を中核として碁盤の目のように道が作られ、周囲を堀と土塁でめぐらされた町でありました。

 顕証寺の開基は文明年間(1469〜1487)・明応年間(1492〜1501)ごろですが、いつから現在も残る道や水路があったのかはっきりとは分かりません。

 土塁が登場する資料で最も古いものは慶長7年(1602)に久宝寺百姓が安井氏の行動を訴えた文章に「土塁を崩して宮を作った」とあります。

 また、大坂夏の陣(1615年)では、藤堂高虎軍と長宗我部盛親軍が寺内町の城戸門で戦い、藤堂軍が築地を乗り越え城戸を開けたという記録よりこの頃にも堀や土塁があったことが分かります。(寺内町の北東・今口 には長宗我部物見の松址があります。)

 顕証寺は、現在の位置に正徳6年(1716)に再建し、享保10年(1725)に南に拡張しました。

今、みなさんが立っておられる土塁は約300年前のこの時に造られたものです。

 現在、寺内町を囲む堀と土塁はこの顕証寺南側に一部を残すのみとなっています。

 

 

久宝寺寺内町

 

久宝寺は、戦国時代に寺内町として建設された、450年以上の歴史を持つまちです。

蓮如上人は、文明2年(1470年)の河内布教の際、「帰する者市の如し」といわれるほど帰依する人が多かったので、この地に西証寺を建立しました。西証寺は後に顕証寺と寺号を改め、天文10年(1541年)頃にこの御坊を中心として久宝寺寺内町が誕生しました。

ここには多くの真宗門徒が集まって自治を行い、また商工業者も集まって経済的に繁栄していました。

久宝寺寺内町には江戸時代の絵図が残っており、昔のまちの構成を知ることができます。

寺内町は環濠と土居で囲まれ、まちへの出入りは6か所の木戸口から行われており、内部は東西に7本、南北に6本の道路が碁盤目状 に走っていました。

このような町割りは現在でもほぼ当時のまま残っており、貴重な歴史的遺産として注目されています。また江戸時代から現代に至るまでのさまざまな様式の町家がみられ、この中に社寺や土蔵、あるいは道標、地蔵堂、水路などが通りのアクセントとなってつくられる久宝寺の町並みは、450年以上の歴史を今に伝える生きた歴史の教科書といえます。

 

 

 

①境内②境内社③手水舎④狛犬⑤鳥居⑥許麻橋地蔵

 

訪問日:2024年8月

 

所在地:大阪府八尾市

 

 かつて河内国には大県郡、渋川郡、若江郡にそれぞれ巨麻(こま)郷があった。大県郡には大狛神社(柏原市)があり、若江郡には巨摩廃寺遺跡(東大阪市)がある。

 

 大狛氏は高句麗系の渡来氏族で、天武天皇10年(681)連の姓を賜った大狛造百枝・足坏らが知られる。百枝は持統天皇10年(696)に直広肆を贈位されている。

 

 『新撰姓氏録』(815年)では、高句麗22代国王・安臧王の子とも伝わる溢士福貴君を祖とするものと、高句麗人の伊利斯沙礼斯を祖とするものの二流が伝わる。

 

 高句麗および高麗は、古代において「こま」と呼ばれ、飛鳥時代に日本に伝わった「狛犬」は高句麗から伝わり、獅子を知らない当時の日本人が、そう名付けたという説がある。

 

 その起源は、古代オリエント・インドに遡り、彼らは神や王位の守護神として好んでライオン(獅子)像を用いたといい、スフィンクスもその一例であるという。

 

 日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差はなかったが、平安時代になると、向かって右に口を開いた獅子、左に角を生やし口を閉じた狛犬が置かれるようになる。

 

 鎌倉時代以降、徐々に簡略化され、左右差は口の開き方だけになり、いつしか左右両方の像を合わせて「狛犬」と呼ぶようになった。口の阿吽の形は日本で多く見られる特徴である。

 

 

以下、現地案内板より

 

許麻神社

 

 式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一てある。この地は古く巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神をまつったと伝えられる。

 境内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りである。 

 この寺は、聖德太子の建立で、戦国時代に兵火に逢って焼失した。 その後観音院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音はいま念佛寺にある。

 神社の西方に、むかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった。 

 

八尾市教育委員会

 

 

手水舎の由来

 

 この手水舎は、往古この境内にあった許麻の宮寺久宝寺観音院の鐘楼に由来する。旧記によると、この寺は聖徳太子の建立によるもので、太子自作の十一面観音を本尊としていたと伝えられている。 

 33代推古天皇2年3月 (594年)に勅願所となるが、戦国時代末期の争乱による兵火にかかり灰燼に帰した。

 その後観音院は寛文7年7月(1667年)に再建されるが、明治初年の神仏分離令により廃寺となった。しかし鐘楼は神社の手水舎として移築保存され現在に至っている。 なお釣鐘の消息は不明であるが、その響きは遠く十里の外まで及んだと伝えられている。

 

令和5年4月吉日書

 

 

 

①池島神社②遥拝所③境内より慈眼寺④池島神社境内⑤政太郎寄進の燈篭⑥鳥居前の旧家

 

訪問日:2024年7月

 

所在地:大阪府東大阪市

 

 池島城は、楠木氏の家臣が築いたといわれ、その後は環濠集落となり、かつては城の内・城の淵・北柵戸・外柵戸・大門・馬場などの字名があった。池島神社は旧村北側の大門に鎮座する。

 

 岡田政太郎は池島で豪農の次男として生まれ、大阪玉造(中央区)で風呂屋を営む岡田家の養子となり、跡を継いで風呂客相手に寄席を開き、「風呂政」「クロ政(色黒だった)」などと呼ばれた。

 

 明治末期の上方落語界は、本流で地味だが上品な芸風の3代目桂文枝を総帥とする「桂派」と、桂派から独立し、派手な滑稽話を得意とする「三友派」が鎬を削り、全盛期を迎えていた。

 

 しかし、明治43年(1910)文枝が47歳の若さで急死すると桂派は衰退し、三友派の方も同年に会長の二世曽呂利新左衛門が引退するなど、往時の勢いを失いつつあった。

 

 このような状況下で、明治44年(1911)株で大儲けした政太郎は、大阪上本町(天王寺区)に寄席を入手して「富貴席」と名付け、「浪花落語反対派」(岡田興行部)を旗揚げする。

 

 漫才の源流とされる「軽口」や、物まね、剣舞、曲芸などといった、色物と呼ばれる気楽に楽しめる二流・三流とされた演芸を格安で提供して大成功を収め、反対派は勢力を急拡大させた。

 

 明治45年(1912)には吉本泰三・せい夫妻が諸派の寄席を買収し、大阪天満(北区)で「文芸館」経営に乗り出した(吉本興行部)。吉本は芸人を反対派から借りる一方、寄席を次々と買収する。

 

 大正3年(1914)吉本はこれらの寄席を「花月」に統一する。そして大正4年(1915)には桂派の拠点であったミナミ法善寺の蓬莱館(金沢席)を買収し、「南地花月」と改名する。

 

 そして大正9年(1920)政太郎が53歳で死去すると、次男・岡田政雄が富貴席を継いだが、翌大正10年(1921)には吉本に買収されて反対派は消滅した。

 

 初代桂春団治らを擁し、法善寺「紅梅亭」を拠点に抵抗を続けた三友派も、大正11年(1922)吉本の軍門に降り、ついに吉本が上方の演芸界を制覇したのである、

 

 

以下、現地案内板より

 

現代上方芸能振興の地『池島』

 

 この燈籠を寄進した浪華落語反対派の代表岡田政太郎は、池島出身で、大阪玉造の風呂屋で成功し、明治末期に富貴席という寄席を作りました。

 当時、大阪では落語が主体の寄席が全盛期でした。政太郎は、それに反対して「なんでも構わぬ、上手も下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」を看板に、漫才や曲芸、手品、落語などを併せ興行し成功をおさめ、同種の寄席(浪華落語反対派)が増えてきましたが、政太郎は、宿望半にして大正10年になくなり、その興業方針は、盟友吉本泰三へうけつがれ、現在の吉本興業にいたっています。

 現在演じられている漫才の元祖といわれる玉子屋円辰も池島出身の人です。漫才は、江州・河内音頭から出発し、民謡、落語、流行歌などあらゆる芸能を混合してできたものです。円辰は、本名西本為吉といい、慶応元年(1865)に島中芳五郎の三男に生まれ、市場村(現花園・玉串)の西本家の養子になりました。

 円辰の門からは、荒井浅丸、その孫弟子として、昭和20年まで荒川芳博、芳坊と名乗っていた夢路いとし、喜味こいし等がでています。

 このように池島は、現代の上方芸能に深いかかわりをもつところです。

 

平成27年3月 東大阪市

 

 

 

 

 

①眺望②花見の丘公園③西から見る④北から見る

 

訪問日:2024年8月

 

所在地;大阪府枚方市

 

 本丸山城は、楠木氏の裔を称する津田城主・津田正時が天正3年(1575)本拠の津田城を織田信長に攻め落とされ、天正4年(1576)に麓の地に築いて移ったものとされていた。

 

 しかし、同時代の資料に津田氏の存在が確認できず、近世に紀州藩士・津田氏が絡んだ山論などに際して創作されたものとの説が出て、津田城および本丸山城主・津田氏の存在は疑問視されている。

 

 同時代の資料では、永禄11年(1568)津田城が三好三人衆方から松永久秀方に寝返り、三好義継が大和多聞城から津田城に移たが、やがて三人衆が盛り返し、義継は多聞城に戻っている。

 

 また元亀3年(1572)には松永久秀が織田信長方の私部城攻めに際し、「ツタの付城」を築き久秀の家臣が入ったが、これを本丸山城に比定する説がある。本丸山城と私部城とは4km弱離れている。

 

 さらに元亀4年(1573)には挙兵した足利義昭に呼応した久秀が津田城に入り、兵を宇治まで進出させている。うち「ツタの付城」を本丸山城に比定する説がある。

 

 ただし本丸山城の発掘調査では、恒常的な機能をうかがわせる遺構、遺物も発見されており、私部城などとの類似性も指摘されている。城主を含めてまだまだ謎が多い。