ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①郭Ⅰの土橋②郭Ⅱの二重土塁③郭Ⅱ群の小郭④湧水池⑤郭Ⅳの折れ曲る土塁⑥郭Ⅳの二重土塁

 

訪問日:2025年12月

所在地:仙台市青葉区

 

 戦国時代の国分氏は、北は松森(仙台市泉区)あたり、西は芋沢・愛子・作並に至る陸奥国宮城郡南部を支配し、宮城郡北部で勢力を伸ばす留守氏と争った。

 

 愛子に位置する御殿館は、国分一宮と称する諏訪神社の西側裏山にあり、国分氏の城であると思われるが、留守氏との前線ではないので、城としては重要視されなかったのかもしれない。

 

 国分宗綱は、天文5年(1536)伊達稙宗が大崎氏の内紛に介入した際、黒川景氏や留守景宗(稙宗の実弟)とともに伊達氏に従って出兵した。

 

 また、天文11年(1542)伊達家内部で稙宗と嫡男・晴宗が争った天文の乱では、宗綱は稙宗に、景宗は晴宗に与し、両者は同年に松森で戦った。

 

 この宗綱が、元亀2年(1571)後継者の丹後守宗元とともに諏訪神社の棟札に見える国分能登守宗政と同一人物であるとする説が有力である。

 

 元亀3年(1572)国分能登守が伊達輝宗(晴宗の子)国分名代を弾正忠に譲ることについて承認を得た。系図では国分盛氏として伝わるが、宗元と同一人物かどうかはわからない。

 

 そして盛氏は天正5年(1577)輝宗の弟・伊達政重(国分盛重)を代官として迎え、後に家督を譲り、国分氏は完全に伊達氏に従属することになる。

 

 

以下、現地案内板より

 

御殿館跡

御殿館跡は延宝年(1673-1680)仙台藩(四代綱村)から徳川幕府に書上げた「仙台領古城書上」には「こてん城」とあり、東西60間、南北30間の山城である。

御殿館跡は、自然地形を巧みに利用しており、丘陵中央部は南北から入りこむ谷によって幅20mほどの尾根状になっており、これを境として東郭と西郭に区画して構築されている。各郭の内部には、平場・土塁・空堀・通路・土橋・腰郭・池・段状遺構など多くの遺構が確認されている。

名称や規模については記載はあるものの、城主、築城年代についての記載はない。

中世この地域は国分氏の支配地域であり御殿館についても国分氏に関係する城(館)と考えられる。

*野武士の立籠った処と「安永風土記」に記されている。

 

御殿館跡は、自然地形を巧みに利用した山城です、東西から入りこむ曲輪群になっており、「東曲輪」と「西曲輪」に区画して構築されています。

曲輪の内部には、平場・土塁・空堀・通路・土橋・腰郭・池・段状など多くの遺構が確認されています。

 

 

御殿山山頂に祀られている水分神社

ここ御殿山の山頂に祀られている水分神社は雨乞いの神様で、崇神天皇(紀元前97~92年)の時代に諸国が飢饉となったとき各地に溜め池や溝を作ることを勧められました。

この御殿山にも雨乞いの神様「水分神社」が祀られております。

この地域には広瀬川がありますが、川と居住地域との高さの差が大きく、生活用水・農業用水などすべて溜池から取水されていました。だからこそ水への渇望と重要視が強い信仰へと結びついたのでしょう。

ここ山頂の水分神社は何時ごろから祀られたか不明です。

 

 

御殿山山頂の湧水の池

延暦年代(782-806年)より御殿山に「山神の祠堂」が祀られていたという、文治5年(1189年)源頼朝が奥州征伐の際にこの山神の祠堂に戦勝を祈願し、合戦後配下の伊澤家景氏(後の留守氏)に社殿を造営させ本殿は室町時代の康正3年(1457年)まで御殿山山頂に祀られていました。

神社の中腹より湧き出る当社の御神水は地中深くに畜えられ、御神気のこもった水として山頂境内に湧き出で、厄災を祓い清めてくれる水として伝えられ年間を通し約14度のこの湧水は飲料用としても多くの参拝者に好まれていたという。

 

 

①本殿②本殿と境内社③長床④山頂の水分神社⑤参道⑥鳥居と御殿山

 

訪問日:2025年12月

所在地:仙台市青葉区

 

 陸奥国分氏の主な系図には、佐久間洞巖(義和・1653-1736)が編纂した『平姓国分系図』と国分氏家臣から仙台藩士となった古内家に伝わる『平姓国分系図』がある。

 

 いずれもその祖を桓武平氏千葉氏流の国分胤通(千葉常胤の5男)としており、胤通が陸奥国国分荘を領したのを初めとする。ただ胤通の本拠は下総国葛飾郡国分郷である。

 

 また、戦国時代の国分宗政は両系図ともに能登守となっており、子の盛氏が継いだというところは一致するが、胤通から宗政までの間は一致する名前が全くない。

 

 諏訪神社の棟札には、康正3年(1457)国分宗治が社殿を造営し、元亀2年(1571)には、国分能登守宗政とその後継者の国分丹後守宗元がそれを修理したことがわかる。

 

 しかし、ここで宗政は藤原朝臣国分能登守と記されており、藤原姓称していた。前述のいずれの系図でも結城氏(藤原北家秀郷流)の裔であることが述べられている。

 

 また、国分氏の宿敵留守氏側の史料『奥州余目記録』には、長沼氏(小山氏支流)の一族の僧が能力を買われて国分氏の婿養子となったとし、秀郷流の一族と記している。

 

 国分氏は、国分胤通が宮城郡国分荘を領したのが始まりだが、南北朝時代頃には藤原北家秀郷流に入れ替わったと思われる。国分荘は陸奥国分寺(仙台市若林区)周辺であろう。

 

 なお、東北一の歓楽街・国分町は伊達政宗の仙台城下町建設の際に、陸奥国分寺の門前町が移転してできた町であるとされる。

 

 

以下、現地案内板より

 

諏訪神社本殿 附 棟札

(宮城県指定有形文化財 昭38.7.2指定)

 

 諏訪神社は、延暦年中(782~806)より山神としてこの地に祀られていたものを、文治年中(1185-90)の奥州合戦の際に源頼朝が祈願して勝利を得たので、家臣の伊沢(留守)四郎家景に社殿を造営させたのに伴い、建御名方命を祀り改称したものといわれている。その後、康正3年(1457)国分氏が再興した際に西山(御殿山)の頂より現在地へ移されたと伝えられており、この時の棟札が、慶応元年(1865)に至るその後の11枚とともに保存されている。

 現在の本殿は元禄7年(1694)の着工、宝永2年(1705)の完工と推定されており、古くから代々杮葺入母屋造の覆屋が架けられ、保護されている。本殿は、三間社、流造、柿葺で三間の向拝と浜床をつける。内部は、中宮・左宮・右宮に分かれ奥の厨子も3つある。本殿と長床だけで拝殿のない古い形式である。

 

御殿館跡

 

 諏訪神社後方標高180mの独立丘陵中にあり、その位置は関山越えの旧最上街道に面し、秋保・愛子邑の分岐点にもなっている。野武士がたてこもったとされる防御的性格の強い山城で、全域に土塁や間道・空堀が巡らされ、平場・土橋等の遺構が見られる。

①鳥居と拝殿②社殿③伊達宗重胸像④一の鳥居

 

訪問日:2025年12月

所在地:宮城県遠田郡涌谷町

 

 寛文11年(1671)伊達騒動により、藩主後見の一関藩主・伊達宗勝(51)は改易となったが、藩主・伊達綱村(13)は幼少のためお構いなしとなった。

 

 原田宗補(甲斐)に殺害された涌谷伊達家の伊達宗重(57)は仙台藩内で忠臣として評価され、嫡子・宗元(30)も家督相続を認められ、父と同じく伊達安芸を称した。

 

 時を経て、元禄2年(1689)から3年にかけ、仙台藩が日光東照宮修築の手伝いを請け負った際、宗元は綱村から御家の幕を改めるよう命じられたという。

 

 伊達家の家紋は、「竪三引両」や「仙台笹」(竹に雀)などで知られるが、一門の統制を強化したい綱村は、当時一門によるこれらの家紋の使用を厳しく制限していたようだ。

 

 涌谷伊達家は千葉六党・武石氏一族の亘理氏から起こっている。千葉氏の家紋は守護神妙見に由来する「月星紋」や「九曜紋」「月に九曜紋」などであった。

 

 宗元は千葉の千葉妙見宮(現・千葉神社)に家臣を派遣して調査し、「月に九曜紋」を採用した。涌谷神社明治7年創建)にも、この紋があしらわれている。

 

 元禄10年(1697)綱村の専制に反発した仙台藩家臣団は、騒動に懲りずに綱村の強制隠居を計画したが、縁戚の越後高田藩主・稲葉正往らの反対にあい頓挫した。

 

 

以下、現地案内板より

 

涌谷神社由緒

 

1 祭神 伊達安芸宗重公

2 例祭日 4月27日

3 由緒

 伊達安芸宗重公は涌谷伊達亘理氏第4代の館主である。仙台藩伊達氏の一門として2万3千石を領し、治世20年文武を励まし野谷地の開発に力を尽くし、産業の振興につとめた名君である。

 江戸時代の寛文年中、仙台藩主伊達綱村公幼君のため、後見伊達兵部の独裁政治を憂い、悪人はびこる後見政治の打倒をはかり、仙台藩62万石の安泰を期した大人物である。

 涌谷領二郷谷地をめぐる不正を証拠として江戸幕府に上訴し、寛文11年(1671)3月27日、大老酒井忠清屋敷の裁判において、乱心した家老原田甲斐の凶刃に歿した。年57。昭和2年11月正五位を贈られている。

 明治7年旧館址に神社を創建して公を祀り、神号を赤心猛雄命と稱する。大正9年旧物見台に神明造の新社殿が竣工して今日に至る。もと郷社である。

 

1月1日 歳旦祭  1月14日 どんと祭  2月17日 祈年祭

11月23日 新穀感謝祭  各月1日、15日 月次祭

①太鼓堂②太鼓堂③詰の門石垣④詰の門石垣⑤本丸堀切⑥江合川からの遠望

 

訪問日:2025年12月

所在地:宮城県遠田郡涌谷町

 

 亘理氏は亘理郡を本拠とする桓武平氏千葉氏の庶流で、15代・宗元が伊達稙宗の傘下に入り、16代・宗隆は、外孫にあたる稙宗の12男・元宗を養嗣子(17代)とした。

 

 亘理重宗は、天文21年(1552)元宗の嫡男として生まれた。母は小泉城主国分盛氏の娘・月光院。正室は小高城主・相馬盛胤の娘・真如院。

 

 天文の乱で嫡子・晴宗に敗れた稙宗が、永禄8年(1565)隠居所の伊具郡丸森城に死去。稙宗を保護していた相馬氏が丸森城を接収し、伊具郡をめぐる伊達・相馬の争いが激化する。

 

 天正6年(1578)晴宗の子・伊達輝宗が御館の乱に介入して越後へ出兵すると、父・元宗が伊具郡の相馬盛胤・義胤父子との戦いの指揮を一任され、重宗もこれに従う。

 

 天正11年(1583)丸森城の奪還に成功し、天正12年(1584)には伊具郡全域を回復して相馬氏と和睦が成立するが、天正13年(1586)輝宗は不慮の死を遂げる。

 

 同年、輝宗の子・政宗に従い、人取橋の戦いに父とともに参陣する。天正17年(1589)には重宗が大将として相馬領の駒ヶ嶺城(現・相馬郡新地町)などを攻略する。

 

 次いで、天正18年(1590)童生淵の戦い(相馬市)で、義胤の弟・相馬隆胤と戦って隆胤らを討ち取って大勝し、同年の豊臣秀吉の奥州仕置で駒ヶ嶺城は伊達領に確定した。

 

 天正19年(1591)葛西大崎一揆における佐沼城攻めで負傷、一揆鎮圧後に政宗が岩出山移封されると、亘理郡は伊達領に残されたものの遠田郡へ移され、涌谷城を居城とした。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは人質として江戸にあり、長男・定宗が上杉領の白石城攻めに加わった。慶長9年(1604)定宗に家督を譲り、栗原郡高清水城に隠居する。

 

 慶長11年(1606)政宗の庶子・宗根を婿養子として隠居領と亘理氏の名跡を継ぐこととなり、涌谷城の定宗には伊達姓が許され、涌谷伊達家を称し、代々伊達安芸を通称とした。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 涌谷城跡

 

 涌谷城は、箟岳丘陵を背に北東に深い谷をかかえ、前面は江合川

の流れによって守られる天険の要害である。

 平山城で東西109メートル、南北327メートルの長方形をしている。

 中世大崎氏の支族涌谷氏の居城であった。現在、涌谷神社のあるところが本丸で。北に空堀、南に物見の松がある。二の丸の西部に腰曲輪(こしくるわ)が張り出し、犬走りも残存している。

 近世、天正19年(1591)に亘理重宗が入城し以後277年、仙台藩一門2万2千6百余石の涌谷伊達(亘理)氏の要害屋敷として知られた。天主閣はなく、二の丸が削平拡張されて町宅風建築が並んだ。伊達騒動で有名な伊達安芸の嫡子宗元が、日光廟修営奉行として出張中、元禄2年9月に失火により全焼し、復興に数年を要した。江戸時代の末期には建築21棟、土蔵3棟となり堀をめぐらしていた。

 西方1キロメートルに出丸があって上屋敷と呼ばれた。下郡沼の

南端寒神沼から引く深い内濠(うちぼり)が二の丸の裾をめぐり、

江合川は城の外濠の役目を果した。城東に妙見宮、見龍寺、龍渕寺が建築された。涌谷大橋の東あもとに大手門が設けられ河岸に郷学月将館、内濠を渡ると中の門があり坂を登ると詰の門があった。

 城下は江合川に沿って侍(家中)屋敷を割り出し町屋敷は仙台道に沿う本町、新町と穀船河岸につながる河原町の3町であった。

 明治2年(1869)登米県庁が置かれて、権知事鷲津宣光が来任した。明治5年居館はすべて取りこわされ、今は詰門附近の石垣と角櫓(すみやぐら)に昔の名残りを留めるのみである。

 

平成2年4月

涌谷町長 涌谷町教育委員会

 

 

涌谷館跡(中世~近世)

中世には涌谷氏(大崎氏の一族)の居館と伝える。

南西は江合川の内側に掘をめぐらし、東は深い沢と堤となる要害である。

平場と腰曲輪が良く残る中世山城である。

天正19年(1591)亘理兵庫頭・美濃守重宗父子が入城して以後、涌谷伊達家の居屋敷(涌谷要害)として栄えた。

 

令和5年12月 涌谷町教育委員会

 

 

町指定文化財 太鼓堂(隅橹)

平成12年6月28日指定

 

 天保4年(1833)の再建といわれ、屋根には仙台藩一門の象徴として鯱があげられている。

 極めて素朴な建築で、仙台藩内における楼閣建築として、大変貴重な遺構である。

また、この太鼓堂の下の詰之門石垣とともに涌谷館内における藩政期を偲ばせる唯一の建造物である。

 

平成14年3月 涌谷町教育委員会

 

 

 

①標柱②曲輪か③切岸か④土塁か⑤神社から見下ろす⑥遠望

 

訪問日:2025年12月

所在地:宮城県東松島市

 

 東松島市矢本(旧桃生郡矢本町)は、航空自衛隊第4航空団第11飛行隊(通称ブルーインパルス)の本拠地・松島基地が所在することで知られる。

 

 松島基地を見下ろし、ブルーインパルスの撮影スポットである滝山公園がある丘陵の南寄りの断崖に国指定史跡・矢本横穴があるが、見学はできそうになかった。

 

 谷本館(矢本城)跡は滝山公園の丘陵北側にあり、立派な標石もあるのだが、ネット上の情報も少なく、縄張がわからず、クマも怖いので早々に引き上げた。

 

 さらに北側に向かうと八幡神社があり、その付近も空堀や土橋、切岸のような地形のように見えた(写真⑤)のだが、情報がなくよくわからない。

 

 標柱の矢本景重(露印)の兄・月鑑とは、桓武平氏鎌倉氏流の小野館主・長江勝景のことで、弟に三分一所家景、妹に相馬義胤後室がいる。

 

 彼らの父・長江盛景は、天文の乱(1542-48)で伊達晴宗に与して勝利し、敗れた伊達稙宗に与した一族の三分一所館主・三分一所氏に養子を送り込んだという。

 

 矢本景重が矢本氏に送り込まれた経緯は不明だが、盛景死去後の元亀年間(1570-73)兄・月鑑と戦い滅亡した。また月鑑は伊達政宗に謀叛を疑われ、天正19年(1591)殺害されている。

 

 家景は政宗に忠誠を誓い、三分一所氏は仙台藩士として続いた。矢本景重の裔は帰農して代々村役人を務める名家として続いたようで、現在も重層門を構えた家が残る。

 

 

以下、現地案内板より

 

町指定文化財 谷本館跡

 

 延宝年間(1673〜1681)に幕府へ提出された「仙台領古城書上」の写本「仙台領古城書立之覚」並びに「仙台古城記」によると、谷本館は「東西七十一間南北八十三間、右城主矢本筑前守景重入道露印月鑑弟也」と記されている。また、安永5年矢本風土記御用書出」には、「元亀年中迄御住居之由申伝候、当時八滝山御林ニ罷成候事」とある。