①鹽竈神社(名掛丁)
②三浦屋跡碑
③藤村詩碑
訪問日:2026年5月
所在地:仙台市宮城野区
島崎藤村(本名・春樹)は、明治5年(1872)中山道馬籠宿(現在の岐阜県中津川市)の本陣・庄屋・問屋を営む国学者の島崎正樹と妻・縫の4男(第7子)として生まれた。
明治14年(1881)上京し、三田英学校(錦城学園高の前身)共立学校(開成高校の前身)、明治学院本科(明治学院大の前身)などで学び、キリスト教の洗礼を受ける。
明治19年(1886)精神を病んだ父が家中の座敷牢で死去する。明治25年(1892)20歳で明治女学校高等科の英語教師となり、翌年には北村透谷らと雑誌『文学界』を創刊。
一方で、教え子の佐藤輔子(ただし年上)に許されぬ恋をした藤村は4ヶ月で職を辞し、棄教して西へと傷心の旅に出た。明治27年(1894)生活のため女学校に復職する。
しかし同年、透谷が自殺、さらに明治28年(1895)には輔子が嫁ぎ先で病没、長兄・秀雄が収監されるなどの精神的苦痛が相次ぎ、再び女学校を辞職する。
明治29年(1896)東北学院の教師となり仙台に赴任。支倉町に住んで詩作を始め、その後名掛丁の三浦屋に移り、明治30年(1897)第一詩集『若菜集』を発表して文壇デビューを果たす。
「初恋」や「秋風の歌」など明治浪漫主義を代表する繊細な詩風で、漢詩調の詩風である仙台出身の土井晩翠とともに「藤晩時代」と称された。
仙台赴任は1年余りであった。明治32年(1899)小諸義塾の教師として長野県小諸に赴任し、同年には冬子と結婚する。ここで写生文『千曲川のスケッチ』が生まれた。
この頃から詩歌から決別して散文へと転向し、明治38年(1905)小諸義塾を辞して上京、翌年に小説『破戒』を自費出版して浪漫主義から自然主義文学に移行していく。
以下、現地案内板より
塩竈神社(仙台東口)の由来
江戸時代、4代藩主伊達綱村が塩竈の奥州一之宮鹽竈神社を再興する際に、寄進する奉弊及び勅額等を東六番丁にあった高福院の境内に仮宮を設けて安置した(1673〜80)。その後社殿の修復が完了し、その品々は塩竈に奉納されたが、町内の氏子が仮宮を廃殿にするには忍びないと、新たに塩竈より鹽土老翁神(しおつちのおじのかみ)をお迎えして、その名を「鹽竈大明神」として再度お祭りした。明治維新後は神仏分離令により塩竈神社と改称して、明治6年(1873)高福院から西側の各掛丁にあった大歳神社に移し合併した。
明治26年(1893)には氏子19人が浄財を出し合い、明治20年(1887)に開通した東北本線仙台駅舎の東向かいの東六番丁三吉神社境内の土地を買い求めて、三吉神社の西隣に塩竈神社を遷宮した。
昭和5年(1930)氏子総代菅野直助、北村鶴治の発案で広く浄財を募り、見事な入母屋造りの社殿を完成させた。その後境内には神楽堂も造られ、お祭りの際には多くの出店も軒を連ねて賑った。
平成14年(2002)、仙台駅東第二土地区画整理事業の施工に伴い神社の移転を命じられ、現在の地に新たな社殿を建てて再度遷宮し、社務所も新築移転した。
当神社は、縁結び、安産、家内安全、交通安全などの諸願祈願に多くの参拝者が訪れる。
参考 昭和28年刊仙合市史別編五『 仙台の社寺」昭和5年9月30日付新聞記事
【塩竈神社参道】
この参道敷石は、元寺小路・福室線の工事による宮城野橋(通称X橋)架け替えにともない、不用になった石材を名掛丁東名会(地元町内会)が仙台市より譲り受け、塩竈神社・三吉神社の参道として再活用したものである。
X橋は大正11年(1922年)に軍部の要請により建設された東北本線を跨ぐ陸橋であるが、地元商店街の存続を無視した道路の新設計画に、町内会が一丸となり、後藤新平(東京初代市長)まで担ぎ出して反対運動を起こしたが、所詮軍部が相手では勝ち目無くX橋とともに新道路は建設された。
しかし、この道路はその後の車社会の到来とともに、仙台駅の東西を結ぶ幹線道路となり市民の生活にも大きく貢献した。
このX橋の石材には、軍用道路としての強度が要求され、主に宮城と福島の県境にある和田峠の石材が使われたが、一部、茨城県笠間市産の『稲田石』が使われた。
この石材を利用した同時代の建造物として『国会議事堂』『東京日本橋』『東京駅』『明治神宮』等があり日本近代建築の歴史に大きく寄与した。
名掛丁東名会では、この石材を『街の歴史遺産』として参道に再活用し、その歴史を、後世に伝えるものである。
平成23年10月10日 名掛丁東名会有志
【X橋命名の由来】
軍の要請による新道の建設の為に、名掛丁と元寺小路の町を繋ぐ踏切は撤去されることになった。
その救済として、宮城野橋に連結する道路は、東西の名掛丁と元寺小路に二股に建設され、その形が『Xの文字』に似ていることから『X橋』と呼ばれるようになった。
島崎藤村と名掛丁東名会
今から100年程前(明治29年)に木曽・馬籠生まれの島崎藤村が東北学院の英語の教師として名掛丁・三浦屋に下宿し、ここから日本近代詩の魁になった『若菜集』が生まれました。名掛丁東名会では、駅東第二区画整理事業が施工される中で、藤村の足跡や地域の歴史を新たな街づくりに活かす事を念頭に取り組んできました。
この取り組みのひとつとして、平成3年に藤村の生まれ故郷である馬籠の『藤村記念館』を表敬訪問し、その後も交流を続けてきました。平成6年には『交誼の印』として記念館より藤村の生家跡に植えてあった『ミヤギノハギ』が当町内会に寄贈され、平成9年1月15日には、藤村記念館が創立五十周年を迎えるにあたり名掛丁東名会がその祝賀会へご招待を頂きました。
そこで当町内会では、その『ミヤギノハギ』の花房を、宮城県の無形文化財の和紙職人(故)遠藤忠雄さんに漉き込んでいただいた『白石和紙』に藤井仙台市長の揮毫を戴き、藤村記念館に奇噌しました。右の写真が記念館に寄贈したものです。私たち名掛丁東名会は藤村記念館との交流を通して宮城野の平安時代から続いている文学の風土がさらに豊かになることを願っています。
名掛丁東名会 平成14年2月17日設置
島崎藤村と名掛丁
島崎藤村が東北学院の教師と
して来仙したのは明治29年24歳の時でした。木曽馬籠の生家の没落、明治女学校での教え子との失恋、そして親友、北村透谷の自殺など、東京での悩み多き生活から逃れるように仙台にやってきました。孤独と憂いを抱いて行き着いた仙台の風土は、藤村の心の傷を癒し、苦境から立ち直らせました。そして藤村の口からうたい出された詩は、日本近代詩の先駆けとなった『若菜集』として出版され、日本中で愛読されました。
その数々の詩作を生み出す舞台
となったのが名掛丁の下宿屋「三浦屋」だったのです。名掛丁での生活を藤村は次のように語っています。
仙台の名影町といふところに三浦屋といふ古い旅人宿と下宿屋を兼ねた宿が米のたにありました。その裏二階の静かなところが一年間の私の隠れ家でした。『若菜集』にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。宿屋の隣に石屋がありまして、私がその石屋との競争で朝早く起きて机に向かったことを憶えて居ます。あの裏二階へは、遠く荒浜の方から海のなる音がよく聞こえて来ま
した。『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです。
『市井にありて』より
※藤村は『名掛丁』を『名影町』と書いています。
2005年8月29日 名掛丁東名会
島崎藤村『草枕』詩碑
心のやどのみやぎ野よ 乱れて熱きわが身には 日かげもうすく草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ 独りさみしきわが耳は 吹く北風を琴ときゝ かなしみふかき吾が眼には 色無き石も花と見き
島崎藤村
年若き日の思い出に旧詩草枕の一節をしるす
『草枕』は、藤村が漂泊の末たどり着いた仙台の地が、やがて夜明けの地、春の到来を告げる場所になることを確信していく心の軌跡
を自伝風に綴った長い詩です。明治30年8月刊行の『若菜集』51篇の中でも、特別な位置づけのされる代表作の一つです。
碑文は、その中の一節で、心の中に見えた宮城野が感動的に歌われ、自筆で記されています。藤村自身、回想の中で好んで引用し、「私が一生の曙は、このようにして開けてきた」と述べています。
この碑は昭和11年11月、当時の土居光知東北大学教授ら有志により八木山に建立されました。日本近代詩の第一歩がしるされたこの仙台の地にこそ碑を、という熱い思いから藤村に揮毫を求め、実現したものです。当初、宮城野原が候補地にあかりましたが、陸軍第二師団歩兵第四連隊があったため、静かな環境の八木山に建立
されたのでした。翌12年に来仙した藤村は、碑を前に感激し、「これはたゞの詩碑でもない、むしろ、青春の碑とも言ひたい」と
述懐しています。
昭和40年、八木山に新たに動物公園が開設され、続く拡張工事
に伴い、藤村詩碑は同42年4月、青葉山公園(仙台城跡)に移されました。
藤村が下宿した『三浦屋』の跡地は、仙台駅東第二土地区画整理事業の中で、平成16年、地元の人々の思いにより、藤村ゆかりの広場として整備されました。そして同19年。青葉山の詩碑は、若き藤村が詩心をはぐくみ、地域の誇りを守り育てる活動が熱心に続けられてきた、この地に、安住の場を求めることになりました。
仙台市