ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①第16利丸②第16利丸③鮎川港④甲板⑤船首の捕鯨砲⑥船尾

 

訪問日:2026年5月

所在地:宮城県石巻市

 

 江戸時代の鮎川浜は小さな漁村で、外国船を監視する唐船番所が置かれ、金華山への参詣道として一ノ鳥居と茶屋が設けられていたが、戸数は81(1772年)ほどであった。

 

 仙台藩は、天保8年(1837)捕鯨取開方を設けて牡鹿半島沖で試験的に捕鯨を行ったが、芳しい結果は得られないまま明治を迎えていた。

 

 日本近海におけるロシアやアメリカなどの外国捕鯨船の活発化を懸念した明治政府は明治31年(1898)遠洋漁業奨励法を施行して国内捕鯨の近代化を求めた。

 

 これに応えて成功した下関の東洋漁業株式会社(後の日本水産→ニッスイ)が、明治39年(1906)鮎川浜に事務所を設けて金華山沖でノルウェー式による捕鯨を始める。

 

 次いで明治40年(1907)高知県の土佐捕鯨合資会社(後の大洋漁業→マルハニチロ)などが次々に鮎川浜やその周辺に進出し、さらに鯨油やゼラチン、鯨肥工場も創業され、鯨の町として栄えた。

 

 第二次世界大戦を経て、欧米諸国が鯨油から植物性油脂や牛脂にシフトして捕鯨を縮小・撤退したのに対し、鯨肉の需要が多い日本は、昭和34年(1959)捕獲頭数世界一となった。

 

 国際捕鯨委員会(IWC)は、昭和37年(1962)から捕獲頭数の国別割当を実施して、鯨類の保護を図り、昭和57年(1982)商業捕鯨停止を決議する。

 

 日本はノルウェー・ペルー・ソ連とともに異議申し立てをしたが、後にこれを受け入れ、昭和63年(1988)大型捕鯨船の操業が停止され、調査捕鯨が行われることとなった。

 

 鮎川浜における捕鯨は衰退の一途をたどり、IWCの規制対象外である小型捕鯨船によるゴンドウクジラやツチクジラの捕鯨が細々と続けられた。

 

 東日本大震災では、震源地に最も近く、三方を海に囲まれた鮎川浜に最大8.6mの津波が襲い、死者8名、行方不明5名などの壊滅的な被害を受けた。

 

 令和元年(2019)日本はIWCを脱退し、領海とEEZ内における大型鯨類の商業捕鯨が再開され、鮎川港を拠点としたミンククジラの商業捕鯨が32年ぶりに再開された。

 

 

以下、現地案内板より

 

捕鯨船 第16利丸

 

船歴

 1959年(昭和34年)日本は南氷洋捕鯨で捕獲頭数世界一となりましたが、大洋漁菜(株)(現マルハニチロ(株))はその前の年に、所有する3つの捕鯨船団に最新鋭の大型高速捕鯨船を“指揮船”として、それぞれの船団に投入し競争力を高めました。

 その3隻のうちの1隻が、この『第16利丸』でした。初代砲手は日本一の名砲手と言われた泉井守一氏で、成績は常に優秀であったことから、捕鯨船乗りの憧れのキャッチャーボード(捕鯨船)だったと語り継がれております。

 母船式捕鯨を退いた後、最後は鮎川を拠点としていた日本捕鯨(株)の所属船となり、昭和62年12月25日の金華山沖操業を最後に30年間続いた現役を退きました。

 その後、平成2年に「おしかホエールランド」の陸上展示となり現在に至っております。

このため、展示船の煙突には南氷洋時代の『マルハ』マークではなく「日本捕鯨(株)の社旗』がペイントされております。

 

船体

総トン数 758.33t  純トン数 236.62t  長さ 68.37m  幅 9.90m

深さ:船首 2.58m  深さ:船尾 4.84 m  馬力 3,500馬力

最大速力 17.555ノット(32km)  経済速力 14ノット(26km)

①社殿②弁財天堂③随神門④表参道三ノ鳥居⑤二ノ鳥居⑥一ノ鳥居

 

訪問日:2026年5月

所在地:宮城県石巻市

 

 神仏分離令に伴い、明治2年(1869)金華山大金寺は廃され、金山毘古・金山毘売両神を祭神とする黄金山神社となり、大金寺の別当は還俗して神職となった。

 

 これは、金華山が天平の産金地であり、『延喜式』の小田郡黄金山神社の故地であるとされてきたことによるものだが、文化7年(1810)には、国学者・沖安海が遠田郡涌谷村説を発表していた。 

 

 近代の発掘調査や地質調査の結果、現在の涌谷町黄金山神社一帯が、天平の産金地であることがほぼ確実となり、昭和42年(1967)「黄金山産金遺跡」として国の指定を受けている。

 

 金華山は古くから牡鹿半島沿岸の人々の崇拝を受け、やがて修験者が集まり寺院を建立した。藤原秀衡(1122-87)が48の坊と寺領1000石を寄進して一山寺院に発展したと伝わる。

 

 金華山はほとんど花崗岩からなり、金鉱床は存在しないが、ケイ酸塩鉱物の雲母(きらら)が金と誤認され、天平産金のイメージが出来上がった可能性も指摘されている。

 

 しかし大金寺は、文化10年(1813)の火災により全山が焼失の憂き目に遭い、一切の古記録が失われており、詳細については不明である。

 

 近世中期以降は仙台藩内のみならず、他国からも多くの参詣者が訪れた。まず金華山を見下ろす一ノ鳥居をくぐり、渡し船で金華山瀬戸を渡って参拝したという。

 

 これに倣って一ノ鳥居(唐船番所に近い)を通り、鮎川からではあるが金華山に渡って参拝させていただいた。金鉱は無くとも金華山は訪れる価値がある聖地である。

 

 

以下、現地案内板より

 

黄金山神社の由緒

御祭神 金山昆古神 金山昆売神

 今から凡そ1300年前、聖武天皇の御代天平21年(西暦749年)に、それまで日本では採れないと考えられていた黄金が陸奥の国で発見され、国守百済王敬福より砂金900両が朝廷に献ぜられた。

 当時東大寺大仏建立にあたり、鍍金用黄金の不足に頭を悩ませていた天皇はこれを大いに喜び、年号を改元、産金者らには昇叙賜姓、免税がなされ国家的な一大慶事として祝賀された。

 万葉歌人 大伴家持は

  すめろぎの 御代栄んと東なる

  みちのく山に、黄金花咲く

 と詠ってこの記念すべき初産金を祝福し、以後、みちのく山とよばれていた秀麗な島は金花山又は金華山と呼称され、その地に慶祝をこめて、金を司る金山昆古神 金山昆売神の奉祀神社を創建したのが金華山黄金山神社である。

 中世以降、神仏習合時代は大金寺が中心となり東奥三大霊場の一つとして修験者が活躍、福神辯財天信仰が広まり繁栄した。

 そして明治2年の神仏分離令後は黄金山神社に復古、現在は黄金発見に因む金運、幸運、開運招福の御神徳に福神辯財天の芸術面の御利益も加わり、広く全国から篤い信仰を集めている。

 

宮城県石巻布金華山鎮座

黄金山神社社務所

 

 

一ノ鳥居

 この鳥居は、天保14年(1843)

9月、當時の十八成組一浦十浜の大肝入長沼平左衛門が主立となり、藩の費用で稲井の石工勝右衛門に作らせ、造立したものである。高さ5.72メートル、周り2.34メートル、重さ数百貫の稲井石は、十八成組、狐崎組から集められた数百の弁当自弁の人夫によって二日がかりで鮎川浜から運び揚げられた。扁額は山形の三浦権四郎以下8名の発願により、二口峠を経て蒲生より船で運んで奉納された。鳥居は風当たりの強い場所にあるため藩に願って翌15年に、厚さ10センチメートル、高さ58センチメートルの石8枚で根巻きし、さらに厚さ6ミリ、幅5センチメートルの鉄輪で締めつけ補強している。当時の金華山島は女人禁制の為、女性は此処より奉拝して帰ったという。

①番所跡②復元番所建物③番所跡④金華山⑤金華山瀬戸⑥網地島と田代島

 

訪問日:2026年5月

所在地:宮城県石巻市

 

 元文4年(1739)5月19日、仙台藩領気仙沼大島沖合で異国船1隻の目撃情報があり、23日には牡鹿半島西側の網地島に2隻が投錨しているのが確認された。

 

 2艘の漁船が近づき、船上に上がって食糧や日用品を提供し、織物や見知らぬ銀貨を受け取ったというが、日本側の記録では、引き返して役人に報告したとされる。

 

 25日には同じく仙台藩領亘理郡沖で3隻が目撃された。仙台藩は同日、軍勢の派遣を決定し、27日、命を受けた仙台藩御一家の鮎貝盛益(気仙沼所)が約80艘を率いて出航した。

 

 5月28日、3隻は再び牡鹿半島西側の田代島に停泊し、浜役人ら4人が接触、退去を要請した。役人2人は異国船から料理やウォッカの饗応を受けたという。

 

 その後、鮎貝の船団がこれを遠巻きに囲むと、異国船は錨を巻いて立ち去った。ペリーの黒船来航の114年前、徳川吉宗が将軍であった時のことである。

 

 遠く離れた安房で25日に、伊豆下田でも28日に異国船が現れていた。幕府は現地民が入手した銀貨やトランプカードを長崎出島のオランダ商館に照会し、これがロシア帝国のものと知る。

 

 この異国船団は、ビョートル大帝の命を受けたベーリング探検隊(1728年ベーリング海峡を発見)の分遣隊で、日本の調査のためやってきたシュパンベルクが率いる4隻であった。

 

 幕府がロシア帝国を公的に認識したのはこれが初めてであった。網地島にはシュパンベルクではなく、日本には来ていない探検隊長・ベーリングの銅像が建つ。

 

 ロシア帝国は、その後も千島列島を南下し、千島アイヌ居住域へ勢力を伸ばした。寛政4年(1792)にはエカチェリーナ2世の命を受けたラクスマンが通商を求めて根室に来航する。

 

 

以下、現地石碑より

 

仙台藩鮎川浜唐船番所跡

 

 寛永14年(1637)島原乱後幕府は鎖国を強化し諸大名に令して領海沿岸に異国舩監視所を設置した。鮎川浜唐船番所は正保3年(1647)2代藩主伊達忠宗の設置で、小渕浜穀改役所に管理せしめ見張所に遠目鏡を備え鮎川の者2名が足軽格として定勤した。付近海岸警備は涌谷伊達氏ら5氏の担当であった。

 

宮城県文化財専門委員三原良吉誌

昭和43年3月20日

財団法人宮城県文化財保護協会

宮城県 牡鹿町

①旧駅舎②乗車券販売機③プラットホーム④3.11の野蒜駅⑤東松島市の石材⑥仙石線線路跡

 

訪問日:2026年5月

所在地:宮城県東松島市

 

 仙石線は、前身の宮城電気鉄道が、大正14年(1925)仙台ー西塩釜間を開業し、その後、本塩釜、松島公園(現・松島海岸)、陸前小野と順次延伸し、昭和3年(1928)石巻まで全通した。

 

 東塩釜ー高城町(松島町)間は、鉄道省の東北本線と併走しているが、昭和19年(1944)戦時買収により宮電は国有化され、鉄道省仙石線となった。

 

 昭和62年(1987)国鉄分割民営化によりJR東日本の路線となるが、同社の東北地方の路線では唯一の直流電化路線であった(東北本線は黒磯以北が交流電化)。

 

 平成23年(2011)東日本大震災では、発生直前に野蒜駅を発った石巻行き下り快速電車(乗客約100人)は、後述する案内板に記された経緯により津波は車両には到達せず乗員乗客全員が無事であった。

 

 一方、ほぼ同時に野蒜駅を発ったあおば通行き上り普通電車の乗客(約50人)が指定避難場所の野蒜小学校に避難した後、車両は津波に押し流され大破した。

 

 津波は野蒜小学校にも押し寄せ、体育館内に避難していた児童・住民のうち、少なくとも18人(あおば通行きの乗客1人を含む)が犠牲となった。

 

 復旧が遅れた高城町ー陸前小野間のうち、陸前大塚ー陸前小野間6.4kmとその間の東名駅・野蒜駅を500mほど内陸に移設して、平成27年(2015)ようやく再開された。

 

 なお、同時に東北本線と仙石線を結ぶ接続線(0.3km)が松島町内に開通し、仙台一石巻間を従来の仙石線単独ルートより約10分短縮する仙石東北ラインの運行が始まった。

 

 両線の電化方式が異なり、立地条件から無電区間(デッドセクション)が設置できず、接続線は非電化で、ハイブリッド気動車のHB-E210系で運行されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

東松島市東日本大震災復興祈念公園

 

未曾有の被害をもたらした東日本大震災では、たくさんの尊い命が失われました。お亡くなりになられた方々への追悼と鎮魂を祈念するとともに、震災の記憶と教訓、国内外からいただいた支援への感謝の心を、これからも忘れることなく、後世に伝承する拠点として、ここを「東松島市東日本大震災復興祈念公園」とします。

 

震災遺構(JR仙石線旧野蒜駅プラットホーム)

かつて、海水浴客をはじめ多くの観光客で賑わっていた野蒜地域。その玄関口として、野蒜駅はありました。

2011年3月11日東日本大震災。大津波により支柱がなぎ倒され、レールも大きく湾曲させられるなど、大きな被害を受けたプラットホームを、東松島市は「震災遺構」に定めました。復興の歩みを進め、新野蒜駅が高台に移った今も、当時の痕跡を残し続けます。

 

 

東松島市の石材業

 

1.石材の性質やその用途

 旧鳴瀬町付近一帯に分布している石材は、新第三紀中新世中期の軽石凝灰岩、安山岩の角礫を含まないため、容易に切り出し、採掘しやすい軟石です。

 生産される石材は5種類(野蒜石、松島石、青葉石、潜ヶ浦石、川下石)に分類され、その中でも生産額が最も多いのは野蒜石で、古くから郷土の石材として親しまれ、「土台石」「倉庫」「石塀」などに、広く利用されてきました。

2. 本市における石材業の歴史

 岩材の始掘は、江戸時代と推定されると野蒜石材碑(同敷地)にも記されています。

 明治38年ごろには、東名運河を利用して、塩竈まで運び、県内をはじめ三陸一帯へ出荷され、かまど、倉庫に利用されてきました。

 大正10年には、需要が増え、販路拡大のため、会社が創立されました。高価な建材用レンガの代用品として、北海道から福井県にまでその名が知られました。

 昭和40年代の前半までは年々需要が伸び、石材業も盛んでしたが、昭和48年ごろより軟石としての欠点である耐久性の問題が顕著化しました。さらに、追い打ちをかけるように、貿易自由化による高級多様な石材が輸入される等の背景を受け、本市の石材業は徐々に衰退していきました。現在では、採掘量は激減しましたが、石材採掘は続けられています。

 平成23年3月11日に発生し、未曾有の被害をもたらした東日本大震災による大津波は、この集落全てを飲み込み多くのものを奪いましたが、この蔵は唯一その形をはっきりと残し、震災前の人々の暮らしの一片を思い起こさせます。

 

 

東日本大震災とJR仙石線

運行中の列車が津波による被害を免れた地点

 

 震災当日、あおば通発・石巻行の下り快速列車3353Sは、野蒜駅で上り普通列車1426Sとすれ違いで発車直後、14時46分発生の地震により、野蒜駅から約600m石巻方面に向かった地点で停車しました。停車した地点は切通し区間で標高約10mの場所でした。

 乗客および乗務員は、一旦は野蒜小学校に向け避難を開始しましたが、乗車していた元消防団員のアドバイスで車内に留まることを選択して車内で一夜を明かしました。

 津波は列車の近くまで迫ってきましたが、停車地点が小高い丘であったことや両側を山に囲まれていたことが功を奏したのか、津波の直接的な影響を受けることはありませんでした

 

東松島市

①鹽竈神社(名掛丁)②三浦屋跡碑③藤村詩碑

 

訪問日:2026年5月

所在地:仙台市宮城野区

 

 島崎藤村(本名・春樹)は、明治5年(1872)中山道馬籠宿(現在の岐阜県中津川市)の本陣・庄屋・問屋を営む国学者の島崎正樹と妻・縫の4男(第7子)として生まれた。

 

 明治14年(1881)上京し、三田英学校(錦城学園高の前身)共立学校(開成高校の前身)、明治学院本科(明治学院大の前身)などで学び、キリスト教の洗礼を受ける。

 

 明治19年(1886)精神を病んだ父が家中の座敷牢で死去する。明治25年(1892)20歳で明治女学校高等科の英語教師となり、翌年には北村透谷らと雑誌『文学界』を創刊。

 

 一方で、教え子の佐藤輔子(ただし年上)に許されぬ恋をした藤村は4ヶ月で職を辞し、棄教して西へと傷心の旅に出た。明治27年(1894)生活のため女学校に復職する。

 

 しかし同年、透谷が自殺、さらに明治28年(1895)には輔子が嫁ぎ先で病没、長兄・秀雄が収監されるなどの精神的苦痛が相次ぎ、再び女学校を辞職する。

 

 明治29年(1896)東北学院の教師となり仙台に赴任。支倉町に住んで詩作を始め、その後名掛丁の三浦屋に移り、明治30年(1897)第一詩集『若菜集』を発表して文壇デビューを果たす。

 

 「初恋」や「秋風の歌」など明治浪漫主義を代表する繊細な詩風で、漢詩調の詩風である仙台出身の土井晩翠とともに「藤晩時代」と称された。

 

 仙台赴任は1年余りであった。明治32年(1899)小諸義塾の教師として長野県小諸に赴任し、同年には冬子と結婚する。ここで写生文『千曲川のスケッチ』が生まれた。

 

 この頃から詩歌から決別して散文へと転向し、明治38年(1905)小諸義塾を辞して上京、翌年に小説『破戒』を自費出版して浪漫主義から自然主義文学に移行していく。

 

 

以下、現地案内板より

 

塩竈神社(仙台東口)の由来

 

 江戸時代、4代藩主伊達綱村が塩竈の奥州一之宮鹽竈神社を再興する際に、寄進する奉弊及び勅額等を東六番丁にあった高福院の境内に仮宮を設けて安置した(1673〜80)。その後社殿の修復が完了し、その品々は塩竈に奉納されたが、町内の氏子が仮宮を廃殿にするには忍びないと、新たに塩竈より鹽土老翁神(しおつちのおじのかみ)をお迎えして、その名を「鹽竈大明神」として再度お祭りした。明治維新後は神仏分離令により塩竈神社と改称して、明治6年(1873)高福院から西側の各掛丁にあった大歳神社に移し合併した。

 明治26年(1893)には氏子19人が浄財を出し合い、明治20年(1887)に開通した東北本線仙台駅舎の東向かいの東六番丁三吉神社境内の土地を買い求めて、三吉神社の西隣に塩竈神社を遷宮した。

 昭和5年(1930)氏子総代菅野直助、北村鶴治の発案で広く浄財を募り、見事な入母屋造りの社殿を完成させた。その後境内には神楽堂も造られ、お祭りの際には多くの出店も軒を連ねて賑った。

 平成14年(2002)、仙台駅東第二土地区画整理事業の施工に伴い神社の移転を命じられ、現在の地に新たな社殿を建てて再度遷宮し、社務所も新築移転した。

 当神社は、縁結び、安産、家内安全、交通安全などの諸願祈願に多くの参拝者が訪れる。

 

参考 昭和28年刊仙合市史別編五『 仙台の社寺」昭和5年9月30日付新聞記事

 

 

【塩竈神社参道】

 この参道敷石は、元寺小路・福室線の工事による宮城野橋(通称X橋)架け替えにともない、不用になった石材を名掛丁東名会(地元町内会)が仙台市より譲り受け、塩竈神社・三吉神社の参道として再活用したものである。

 X橋は大正11年(1922年)に軍部の要請により建設された東北本線を跨ぐ陸橋であるが、地元商店街の存続を無視した道路の新設計画に、町内会が一丸となり、後藤新平(東京初代市長)まで担ぎ出して反対運動を起こしたが、所詮軍部が相手では勝ち目無くX橋とともに新道路は建設された。

 しかし、この道路はその後の車社会の到来とともに、仙台駅の東西を結ぶ幹線道路となり市民の生活にも大きく貢献した。

 このX橋の石材には、軍用道路としての強度が要求され、主に宮城と福島の県境にある和田峠の石材が使われたが、一部、茨城県笠間市産の『稲田石』が使われた。

 この石材を利用した同時代の建造物として『国会議事堂』『東京日本橋』『東京駅』『明治神宮』等があり日本近代建築の歴史に大きく寄与した。

 名掛丁東名会では、この石材を『街の歴史遺産』として参道に再活用し、その歴史を、後世に伝えるものである。

平成23年10月10日 名掛丁東名会有志

【X橋命名の由来】

 軍の要請による新道の建設の為に、名掛丁と元寺小路の町を繋ぐ踏切は撤去されることになった。

 その救済として、宮城野橋に連結する道路は、東西の名掛丁と元寺小路に二股に建設され、その形が『Xの文字』に似ていることから『X橋』と呼ばれるようになった。

 

 

島崎藤村と名掛丁東名会

 

今から100年程前(明治29年)に木曽・馬籠生まれの島崎藤村が東北学院の英語の教師として名掛丁・三浦屋に下宿し、ここから日本近代詩の魁になった『若菜集』が生まれました。名掛丁東名会では、駅東第二区画整理事業が施工される中で、藤村の足跡や地域の歴史を新たな街づくりに活かす事を念頭に取り組んできました。

この取り組みのひとつとして、平成3年に藤村の生まれ故郷である馬籠の『藤村記念館』を表敬訪問し、その後も交流を続けてきました。平成6年には『交誼の印』として記念館より藤村の生家跡に植えてあった『ミヤギノハギ』が当町内会に寄贈され、平成9年1月15日には、藤村記念館が創立五十周年を迎えるにあたり名掛丁東名会がその祝賀会へご招待を頂きました。

そこで当町内会では、その『ミヤギノハギ』の花房を、宮城県の無形文化財の和紙職人(故)遠藤忠雄さんに漉き込んでいただいた『白石和紙』に藤井仙台市長の揮毫を戴き、藤村記念館に奇噌しました。右の写真が記念館に寄贈したものです。私たち名掛丁東名会は藤村記念館との交流を通して宮城野の平安時代から続いている文学の風土がさらに豊かになることを願っています。

 

名掛丁東名会 平成14年2月17日設置

 

 

島崎藤村と名掛丁

 

 島崎藤村が東北学院の教師と

して来仙したのは明治29年24歳の時でした。木曽馬籠の生家の没落、明治女学校での教え子との失恋、そして親友、北村透谷の自殺など、東京での悩み多き生活から逃れるように仙台にやってきました。孤独と憂いを抱いて行き着いた仙台の風土は、藤村の心の傷を癒し、苦境から立ち直らせました。そして藤村の口からうたい出された詩は、日本近代詩の先駆けとなった『若菜集』として出版され、日本中で愛読されました。

 その数々の詩作を生み出す舞台

となったのが名掛丁の下宿屋「三浦屋」だったのです。名掛丁での生活を藤村は次のように語っています。

 

 仙台の名影町といふところに三浦屋といふ古い旅人宿と下宿屋を兼ねた宿が米のたにありました。その裏二階の静かなところが一年間の私の隠れ家でした。『若菜集』にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。宿屋の隣に石屋がありまして、私がその石屋との競争で朝早く起きて机に向かったことを憶えて居ます。あの裏二階へは、遠く荒浜の方から海のなる音がよく聞こえて来ま

した。『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです。

『市井にありて』より

 

※藤村は『名掛丁』を『名影町』と書いています。

2005年8月29日 名掛丁東名会

 

 

島崎藤村『草枕』詩碑

 

心のやどのみやぎ野よ 乱れて熱きわが身には 日かげもうすく草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ 独りさみしきわが耳は 吹く北風を琴ときゝ かなしみふかき吾が眼には 色無き石も花と見き

島崎藤村

 

年若き日の思い出に旧詩草枕の一節をしるす

 

 『草枕』は、藤村が漂泊の末たどり着いた仙台の地が、やがて夜明けの地、春の到来を告げる場所になることを確信していく心の軌跡

を自伝風に綴った長い詩です。明治30年8月刊行の『若菜集』51篇の中でも、特別な位置づけのされる代表作の一つです。

 碑文は、その中の一節で、心の中に見えた宮城野が感動的に歌われ、自筆で記されています。藤村自身、回想の中で好んで引用し、「私が一生の曙は、このようにして開けてきた」と述べています。

 この碑は昭和11年11月、当時の土居光知東北大学教授ら有志により八木山に建立されました。日本近代詩の第一歩がしるされたこの仙台の地にこそ碑を、という熱い思いから藤村に揮毫を求め、実現したものです。当初、宮城野原が候補地にあかりましたが、陸軍第二師団歩兵第四連隊があったため、静かな環境の八木山に建立

されたのでした。翌12年に来仙した藤村は、碑を前に感激し、「これはたゞの詩碑でもない、むしろ、青春の碑とも言ひたい」と

述懐しています。

 昭和40年、八木山に新たに動物公園が開設され、続く拡張工事

に伴い、藤村詩碑は同42年4月、青葉山公園(仙台城跡)に移されました。

 藤村が下宿した『三浦屋』の跡地は、仙台駅東第二土地区画整理事業の中で、平成16年、地元の人々の思いにより、藤村ゆかりの広場として整備されました。そして同19年。青葉山の詩碑は、若き藤村が詩心をはぐくみ、地域の誇りを守り育てる活動が熱心に続けられてきた、この地に、安住の場を求めることになりました。

 

仙台市