①第16利丸
②第16利丸
③鮎川港
④甲板
⑤船首の捕鯨砲
⑥船尾
訪問日:2026年5月
所在地:宮城県石巻市
江戸時代の鮎川浜は小さな漁村で、外国船を監視する唐船番所が置かれ、金華山への参詣道として一ノ鳥居と茶屋が設けられていたが、戸数は81(1772年)ほどであった。
仙台藩は、天保8年(1837)捕鯨取開方を設けて牡鹿半島沖で試験的に捕鯨を行ったが、芳しい結果は得られないまま明治を迎えていた。
日本近海におけるロシアやアメリカなどの外国捕鯨船の活発化を懸念した明治政府は明治31年(1898)遠洋漁業奨励法を施行して国内捕鯨の近代化を求めた。
これに応えて成功した下関の東洋漁業株式会社(後の日本水産→ニッスイ)が、明治39年(1906)鮎川浜に事務所を設けて金華山沖でノルウェー式による捕鯨を始める。
次いで明治40年(1907)高知県の土佐捕鯨合資会社(後の大洋漁業→マルハニチロ)などが次々に鮎川浜やその周辺に進出し、さらに鯨油やゼラチン、鯨肥工場も創業され、鯨の町として栄えた。
第二次世界大戦を経て、欧米諸国が鯨油から植物性油脂や牛脂にシフトして捕鯨を縮小・撤退したのに対し、鯨肉の需要が多い日本は、昭和34年(1959)捕獲頭数世界一となった。
国際捕鯨委員会(IWC)は、昭和37年(1962)から捕獲頭数の国別割当を実施して、鯨類の保護を図り、昭和57年(1982)商業捕鯨停止を決議する。
日本はノルウェー・ペルー・ソ連とともに異議申し立てをしたが、後にこれを受け入れ、昭和63年(1988)大型捕鯨船の操業が停止され、調査捕鯨が行われることとなった。
鮎川浜における捕鯨は衰退の一途をたどり、IWCの規制対象外である小型捕鯨船によるゴンドウクジラやツチクジラの捕鯨が細々と続けられた。
東日本大震災では、震源地に最も近く、三方を海に囲まれた鮎川浜に最大8.6mの津波が襲い、死者8名、行方不明5名などの壊滅的な被害を受けた。
令和元年(2019)日本はIWCを脱退し、領海とEEZ内における大型鯨類の商業捕鯨が再開され、鮎川港を拠点としたミンククジラの商業捕鯨が32年ぶりに再開された。
以下、現地案内板より
捕鯨船 第16利丸
船歴
1959年(昭和34年)日本は南氷洋捕鯨で捕獲頭数世界一となりましたが、大洋漁菜(株)(現マルハニチロ(株))はその前の年に、所有する3つの捕鯨船団に最新鋭の大型高速捕鯨船を“指揮船”として、それぞれの船団に投入し競争力を高めました。
その3隻のうちの1隻が、この『第16利丸』でした。初代砲手は日本一の名砲手と言われた泉井守一氏で、成績は常に優秀であったことから、捕鯨船乗りの憧れのキャッチャーボード(捕鯨船)だったと語り継がれております。
母船式捕鯨を退いた後、最後は鮎川を拠点としていた日本捕鯨(株)の所属船となり、昭和62年12月25日の金華山沖操業を最後に30年間続いた現役を退きました。
その後、平成2年に「おしかホエールランド」の陸上展示となり現在に至っております。
このため、展示船の煙突には南氷洋時代の『マルハ』マークではなく「日本捕鯨(株)の社旗』がペイントされております。
船体
総トン数 758.33t 純トン数 236.62t 長さ 68.37m 幅 9.90m
深さ:船首 2.58m 深さ:船尾 4.84 m 馬力 3,500馬力
最大速力 17.555ノット(32km) 経済速力 14ノット(26km)