①境内②大師堂③山門④女坂⑤寄松塚⑥浪切不動明王
訪問日:2024年8月
所在地:大阪市阿倍野区
清少納言(966頃-1025頃)『枕草子』、鴨長明(1155-1216)『方丈記』と並ぶ古典日本三大随筆『徒然草』の作者・兼好法師の生涯については、不明な点が多い。
一般的に俗名は「吉田兼好」とされるが、本人は「卜部兼好」と自著しており、没年は観応元年(1350)68歳で死去との記述が残るが、観応元年死去説は否定されている。
『徒然草』は永享3年(1431)僧・正徹が書写した写本(現存)に、その作者を兼好として、その略歴とともに記したことから、正徹の弟子の歌人・連歌師らによって拡散されたようだ。
そして吉田神道の実質的創始者である吉田(卜部)兼倶(1435-1511)が、その権威づけの方策の一つとして、兼好を吉田家と結びつける系譜を捏造した疑いが指摘されている。
事実として、兼好は関東に二度下向しており、延慶元年(1308)鎌倉金沢の称名寺長老・剱阿が六波羅探題・金沢貞顕に宛てた書状を兼好が持参したことが、貞顕の剱阿への返信により確認できる。
金沢文庫には兼好自身が剱阿に宛てた書状の立紙(包み紙)が2通現存しており、いずれも「卜部兼好」と署名している。また二度目の下向の際、旧居が荒廃している様子を和歌に残している。
『徒然草』によると、兼好は応長元年(1311)京都東山に住んでおり、この頃に出家したと思われる。大覚寺統(後醍醐天皇など)との結びつきが強い二条派の歌人としての活動が確認できる。
元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、貞顕も自害した。四条隆資(権中納言1330-1334)を「黄門」とすることなどから『徒然草』成立はこの頃と見られている。
室町幕府が成立以降は、兼好が北朝の要人と接触を持った記録が散見される。ただ高師直の恋文を代筆して失敗したという『太平記』の記述は創作であろう。
兼好遁世の地としては、『兼好歌集』により修学院や比叡山横川が伝わり、仁和寺南の双ヶ丘も所縁の地として知られる。正圓寺との関係は残念ながら確認できず。
以下、現地案内板より
聖天山正圓寺縁起
聖天さんてよく知られている當山の縁起に天慶2年(939)光道和尚の開基に係り、もと東方五町阿倍野村にあり『般若山阿倍野寺』の一坊てあった。壱千年の長い歴史をたどるうちに幾度か寺運の盛衰もあり、近世では元和の役(1615)の兵火に罹り、爾来大いに衰微するに至ったが、幸にして十方施主の外護により法燈今に連綿と続く。
元禄年中(1688)義道見明和尚が現今の地を相して移転、堂宇を建立、西海を望見し得る老樹の茂る静かな景勝の地形に因んて山号を海照山と改め又寺号を正圓寺と改称した。次いて享保8年(1723)京都より常如和尚(当山第三世)来住聖天堂や、諸堂を再興時に聖天尊への信仰は常如和尚の徳風のもとに頓に盛となり天下茶屋の聖天さんという別称で多くの人から信仰され今日に至る。
御本尊大聖歓喜天王は有名な慈覚大師(794〜864)が入唐求法に際し船待ちの砌感得、自ら一刀三禮霊木を以て彫像奉安されたものと伝えられこの由場ある歓喜天尊を胎内佛として宝蔵した、日本で最も大きな木彫大聖教喜双身天王が現在の御本尊なり。
本尊大聖歓喜天尊は、信者の願望に順って福徳財宝を施與し、一切の願望を成就させる誠に宏大な誓願の佛なるが故に心から歓喜天尊におすがりし、祈念する者には霊験極めて顕著にして功德無盡なりすべてのものに対して感謝歓喜の心を持ち、正しい信仰をすることが聖天尊のお心を頂だく唯一の方途なり。
御縁日 毎月1日と16日には賽者群参し香煙断ゆることなし。山門内には本堂の聖天堂を中心に不動明王を祀る護摩堂、釈迦如来及十六善神を主尊とする和合殿、弘法大师をまつる大師堂、北向延命地蔵で代表される地蔵堂等甍を接している。境内、東方に一幹八枝の霊松聖武帝祈願の『寄松塚』あり、これを中心に白玉稲荷を祭る鎮守堂、八本松竜王拝殿、石切劔箭社祠、石造身代り不動尊外を奉安する当山奥之院等淨域あり。特に寄松塚の松霊たりし八本松龍王は霊験のあらたかなこと世人のよく知る処であり、又特に修行者が今も不思議な霊力を授かる行場として有名なり
三千数百坪の広い 境内にはこの外に
兼好法師藁打石 徒然草の作者で有名な兼好法師の隠棲時につかわれたと伝えられる藁打石は表参道上り口左裾に『大聖歓喜天』ときざんだ方形の石杭の台礎となっている扁平石がこれである。
国丸狂歌塚 狂歌師雄崎国丸の門人によって、寛政5年11月建立したもの。
紹鴎遺愛の手水鉢 寺庭西隅にあり茶匠武野紹鴎は千利休の師、天神森に住し正圓寺にゆかりを持つ身の上であった関係から残したものと伝えらる。
石像彫刻佛像 石造地蔵尊 二躯 表参道西隅にあり、大きい地蔵尊は、文化二年、他は天保辛卯年に建立。
石造十一面視音 もと修行者の水行者の御本尊であったがこの霊泉枯渇、今は山門下に安置す。
石造不動明王 山門下の一願水掛不動尊これなり享和3年建立
石造増長大多門天 山門下。左右に立って仏法の護持にあたる。嘉永年間に建立。
石造宝篋印塔 二基 安永五丙申年建立と天明癸卯年建立光節尼。
佛戒碑 佛教徒の守るべき戒律を二首の歌に刻んだ碑。
聖天さんとは
大聖歓喜天という神様の事です。二つの文字を取って通称聖天さんといわれています。
歓喜天様は、八万四千もの神々を従え、神様の世界では「最後の守護神」「最強の神様」といわれています。最近では、ドラマや漫画の「夢をかなえるゾウ」の 「ガネーシャ」として登場しました。
歓喜天様のお姿は、神様の世界でも珍しく男女が抱擁しているお姿をしています。その事から、「夫婦和合」「恋愛成就」「子宝成就」等の御利益があるとされていますが、「商売繁盛」「開運招福」「開運厄除」「身体健全」等の経済的、身体的、精神的なそれぞれの「諸願成就」 の現世御利益が得られるとされています。
歓喜天様は、「他の神様が叶えられない願いも叶えてくれる」「子孫七代の福を一代で成す」といわれ、その現世御利益の凄さから、天皇、将軍、豪商等、時代の権力者や 商人達が熱心に信仰していたことから、多くの方々に信仰され、聖天さんから現世御利益を授かったという多くの逸話や伝説があります。
正圓寺の本堂には、木造では日本一の大聖歓喜天像をお祀りさせていただいています。
多くの皆様が、聖天さんの「富と繁栄」「縁結び」「障害の除去」「知恵と学問」などの現世御利益を授かれますように。
合掌 正圓寺
聖天山奥之院の由来
ここは聖天山正圓寺境内で、一山の鎮守の神をおまつりする淨域であることから聖天山奥之院と呼ばれている。
鎮守堂を中心に、寄松塚(別称八本松竜王)石切社殿、浪切不動明王、辨財天祠等々が奉安されている。
鎮守堂(別称白玉さん)
御本尊は佛教系の稲荷信仰て霊験あらたかな吒枳尼天をおまつりしている。ダーギニーは梵語の音写て印度古来の神であったが佛法に帰依してからは神通力や法力を持つ護法善神となった。
吒枳尼天お真言
おん、しらばった、にりうん、そわか、
わかりやすく意釈すれば、わが真心はどこまでも通じ、その心は正明なる戒力により悪事災難を除き、福徳智恵を得て、苦を転じて楽となし、悲しみを転じて喜びとなすこと必定なり、と云ふ意味である。
寄松塚(別称八本松竜王)
寺伝によると、聖武天皇が鎮護国家を祈念してこの地に霊實を埋め、その記念として松樹をお手植された処であって、昭和初年までは天をおおう大老松で一大偉観を呈していたと云ふ。この松が一幹八枝の大木てあったのでいつの頃からか八本松と呼ばれていた。この神木に松霊と云はれる竜王様が宿り鎮座されてから世に八本松竜王と尊崇され、理窟では理解し難い不思議な御神徳を垂れたまふことから世人のよく知るところとなる。
昭和20年の大阪空襲で奥之院の諸堂が全焼、さすがの老大木も半ば炭化した古株を残すのみとなった。
然し幸にも吒枳尼天像及び八本松竜王御神体は戦災をまぬがれ現存、この種の御尊像は畿内でも数すくない貴重な秘寶である。
石切社分祠
「世上はれものを患らう者祈れば霊験あり」で有名な石切劔箭神社の分祠で、本社への参詣に暇なき人々のためにここに勧請された。
浪切不動明王
毎月1日、16日には当処で行者護摩が奉修されている。
辨財天祠
嚴島弁天(日本三大弁天の一)と淡路島巡遷弁天を合祠している。
現在奥之院におまつりされている竜王さん、お稲荷さん、お不動さん、石切さん、弁天さん等はすべて商売繁昌、家内安全、産業守護、海上安全、開運出世、芸能上達等々現世のあらゆる福を授けて下さる福神として多くの方々から尊信されている、又修行者が当処で今もなほ不思議な霊感、霊力を授かる行場としても大変有名である。
どうか一人でも多く御参詣下され、あらたかな勝縁に恵まれます様おすすめ致します。
大阪市顕彰史跡第236号
聖天山(北天狗塚)古墳 (阿倍野区松虫通3丁目)
昭和26(1951)年、正圓寺北方約50mのこの地に横穴式石室墳が発見され、石室内から須恵器壺・提瓶、鉄刀数点、ガラス製小玉、琥珀製棗玉が出土した。聖天山にはこうした古墳が群集していたとみられる。
大阪市教育委員会
聖天山(北天狗塚)古墳(阿倍野区松虫通3丁目)【大阪市顕彰史跡第236号】
上町台地西斜面の高所にあって大阪湾を一望できるこの地は「聖天山古墳」という埋蔵文化財包蔵地となっている。その範囲がほぼ字北天狗塚と重なることから北天狗塚古墳と呼ばれることもある。
昭和26年11月、現在の聖天山公園一帯で行われていた土採り工事の最中に土器や鉄刀が発見され、通報を受けた大阪府教育委員会によって発掘調査が行われた。調査担当者は後に関西考古学会の重鎮となる藤澤一夫氏(当時38歳)であった。調査の結果、玄室内から多数の副葬品や人骨が出土し、6世紀後半に築かれた横穴式石室をもつ直径十数mの円墳の存在が明らかにされた。恐らく、同じような構造や規模をもつ古墳が周辺に群集していたと推測される。
また一方、公園の南側にある正圓寺境内については、その平面形から西側に前方部をもつ前方後円墳ではないかとする考えも出されている。平成29年にそこで行われた調査では5世紀代の埴輪も出土しており、聖天山公園一帯には5〜6世紀に築造された複数の古墳が存在していたと考えられる。