ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①金堂(愛染堂)②多宝塔③愛染めの霊水④白竜明神・稲荷明神⑤愛染かつら⑥山門

 

訪問日:2024年9月

 

所在地:大阪市天王寺区

 

 昭和20年(1945)3月13日深夜から14日未明にかけての(第1回)大阪大空襲では、274機のB-29が襲来し、3,987人の死者と678名の行方不明者が出る大惨事となった。

 

 四天王寺では国宝の東大門や庚申堂、五重塔をはじめとする中心伽藍が焼失し、勝鬘院の西隣に位置する大江神社も絵馬堂と神器庫以外の全ての建物が焼失した。

 

 しかし、勝鬘院の多宝塔(1597年、豊臣秀吉による再建、重要文化財)や金堂(1618年、徳川秀忠による再建、大阪府指定有形文化財)などは奇跡的に被害を免れた。

 

 深夜に行われたこの空襲で、難波や心斎橋も猛火に包まれて避難の術はなく、地下鉄も営業を終了し、駅の扉も閉じられている時間のはずであった。

 

 しかし戦後50年以上過ぎた1997年になって、心斎橋駅や本町駅、大国町駅から、電車に乗って被害の少なかった梅田などへ逃れたという証言が複数現れた。

 

 新聞社や地下鉄を運営する交通局の労働組合が調査したが、残念ながら交通局には資料はなく、勤務する職員からも決定的な証言は得られなかった。

 

 少なくとも大混乱の中、より安全な地下への扉が開かれ、一部の人は電車に乗って逃れた可能性は極めて高いと思われる。

 

 

以下、現地案内板より

 

多宝塔

 

宝塔は推古天皇元年(593年)聖徳太子の創建。

慶長2年(1597年)豊臣秀吉が再建した。高さ22メートル、建坪32平方メートル、三手先造り、本瓦葺き、極彩色。様式は桃山時代で、当時の粋を集め豪華雄大、彫刻壁画亦妙技を尽くしている。明治35年サンフランシスコで万国博覧会が開催された時、日本建築の代表として、この塔の模型を出展した。明治42年国宝建造物に指定された。

御本尊は大日大勝金剛尊。勝利開運の本尊として民衆の信仰が篤く、毎年愛染まつりに開扉される。

 

 

願成稲荷明神

この稲荷明神は、豊臣秀吉が当寺を再建した時、厄除の鎮守として秀吉誕生の地である豊川の稲荷尊を勧請して奉安した蛇祗尼尊です。古くから、よく衆生の願いを成就し、福徳財宝を授け給うが故に、「願成稲荷明神」といいます。

 

出世白竜明神

豊臣秀吉が当寺に日月梅を献植した際、古くから存在した梅の枯木の中から銀鱗の白蛇が出現しました。 

秀吉はここに社宇を建立し、この白蛇を奉安しました。白竜明神のご神体は、弁財天です。この明神を信仰し、一心に念ずれば諸運が開け、立身出世がかなうということから「出世白竜明神」といいます。

 

 

愛染めの霊水

この井戸は常に清浄の霊水が湧き出で、この井水を飲めば愛染明王の、御本誓により愛念を叶え、病癒え運を開き給う。古歌に

 「ほらぬ井に たまらぬ水の汲みたてゝ 影も形も なき人ぞ汲む」

かくの如き霊水なれば、この井水にて染め物なせば、色彩よく染まるをもって昔より、藍商者の門に信仰が盛んであって、俳句に

 「賑わしや 愛染詣での 紺屋づれ」

井戸屋形は豊公の建立であったが、昭和20年3月14日の戦災のため焼失した。

 

 

愛染かつら 縁結びの霊木

樹齢数百年といわれる巨大な桂の木に、ノウゼンカズラのツルが巻き付き、桂とカズラが一体となったその姿は、まるで男女が寄り添っているように見えるので、恋愛成就・夫婦和合の霊木として信仰されています。

この霊木の前に二人並んで立ち、❤️を語り合った男女は、たとえ二人がどんな苦難にあろうと、やがて結ばれるという古い言い伝えがあります。

 

 

大力金剛尊

この大力金剛尊は、清王朝時代のもので、大正時代に活躍した、大阪市天王寺区出身の横綱(第26代)大錦が満州巡業の折りに、自身の守護神として気にいって中国から持ち帰られた仏様です。

初めは大阪国技館に奉安されていましたが、昭和25年に愛染堂に縁あってやって来られました。

特にスポーツや勝負事には霊験あらたかで、勝利開運・善因善果の功徳があり、又盗難・火災等の災難除けとしても篤く信仰されています。

 

 

愛染坂

 その名のとおり、坂の下り口にある愛染堂勝鬘院から名付けられた。愛染さんの夏祭り(6月30日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄3年)の建造物で、重要文化財と指定されている。大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい。

 

 

 

①玉出の滝②玉出の滝入口③平和の鐘④舞台より⑤夕日⑥清水坂

 

訪問日:2024年9月

 

所在地:大阪市天王寺区

 

 新清水寺は、かつては有栖寺(うすじ)と称していた。現在は有栖山清光院清水寺と山名になっている。有栖の由来についてはわからなかった。

 

 所在地の伶人町の由来は、明治初頭まで四天王寺で雅楽を演奏する楽人(伶人)が住んでいたことによるもので、清水寺との関連はなさそうだ。

 

 伶人町を含む上町台地西側の地域は、この地を愛した陸奥宗光の父・伊達千広(1802-77)により「夕日岡」と命名され、現在は夕陽丘と呼ばれている。

 

 その斜面にある7つの坂は「天王寺七坂」と呼ばれ、北から真言坂・源聖寺坂・口縄坂・愛染坂・清水坂・天神坂・逢坂と名付けられている。

 

 豊臣秀吉により生國玉神社が現在地に遷座し、徳川幕府により大坂市中の寺院が整理されて寺町が造成されたため、沿道に寺社が多い。清水坂は新清水寺の北側にある。

 

 天王寺七坂を舞台とする短編小説集『幻坂』の著者のペンネームに「有栖」が2つも含まれているので、新清水寺と所縁があるのかと思ったが、どうも違うらしい。

 

 

以下、現地案内板より

 

四天王寺支院 清光院 清水寺

 有栖山清水寺略縁起

 

【清水寺清光院】 

 有栖山(新)清水寺清光院は、四天王寺の支院にして、十一面千手観音霊験の地、技苦与楽の宝刹であります。

 往昔を尋ねますと、摂州大江岸、上古の精舍神窟の跡でありまして、「浪速名所」の随一に数えられております。開山、上古の縁起並に 四天王寺との関係は省略しますが、当山中興延海阿闍梨は 寛永17年(今から約350年前)観世音の御告を受けて洛陽の清水に摸し、大悲の宝殿に改構して、普くあい難き縁を結ばしめられたものであります。

【 御本尊の十一面千手観音菩薩】 

 往古より種々の感応限りなく現われ不可思議の霊験は枚挙遑ない程であります。又脇士には阿弥陀如来、勢至菩薩並に両界曼陀羅を奉安してあります。

 祈願あるお方は、御真言「ヲン、ロケイジバラキリク」を一心は称えることにより、悲愍摂受せられ利益を授ける事更に疑いありません。

【風天算】

 風天尊は、仏法守護の神々のうち、十二天の一に教えられる仏天でありますが、もとより衆生済度が目的で別けて風気を主る御誓願があり、観世音菩薩の化身として、何時如何なる処といえども 「ヲン、バユベイ、ソワカ」の御真言を呪へ常に三宝(仏法僧)に帰依する人は、悪気魔風を退散せしめられ、衆生の身軀に障碍なきよう加護せらる御尊躰であります。

 殊に、当山に安置する風天尊は、昔から船乗、漁夫、建築師、農家等の信仰篤く、一般の家庭にても風邪除に、或は感冒に罹った人々の風気を払うために信心されております。

【地蔵尊】

 境内に安置さられてあります地蔵尊は、伝えによりますと、昔、夜毎池の上に浮び上る霊木がありまして、其処から赤子の泣き声が聞えますので、或る人が不思議に思って、これこそ衆生を加護するために御出世になった地蔵尊であるとして、その霊木を以て御姿を刻み、此処に安置せられたのであると申されております。五疾の平癒、除災招福の御誓願のもとに衆生の帰依篤きものがあります。子供を守護せられ、また授与せられます。何卒「ヲン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ」の御真言を呪えて恭敬礼拝して下さい。

 【玉出の滝】 

 本寺南側の谷にあります玉出の滝は、四天王寺金堂下にある青竜池から滾々として流れ出る白石玉出の霊水が此処に滝となったものであります。聖徳太子御本願縁起に「青竜恒守護麗水東流号日白石玉出水以慈悲心飲之為法楽」とありますように霊験は殊の外あらたかであります。御本尊不動聖明王は、観世音菩薩の化身でありまして「一切の衆生を煩悩苦悔から技済せんが為、或は長寿を得しめんが為、或は一切智々者たらしめんが為」の御本願深き霊尊であります。故に、一心に御真言の「ナマクサマンダバサラナン、センダ、マカロシヤナ、ソワタヤ、ウンタラタ、カンマン」を御称名になれば、必ず抜苦与楽、福寿増長、心願成就すること疑いありません。何卒、常に恭敬礼拝讚嘆して下さい。

【十三塔】

 境内にある十三塔は、鎌倉時代のものです。

 

年中行事

1月1日 午前1時〜初護摩

2月1日 2日 風邪除け風天尊祭

3月中日 本堂先祖御回向

5月28日 不動尊大祭

8月13日 本堂先祖御回向

8月24日 地蔵盆供

9月中日 本堂先祖御回向

11月28日 不動尊秋の大祭

12月31日 除夜の鐘

每月

21日 先祖回向日(午前10時〜12時)

24日 水子供養日(午後1時〜2時)

28日 不動尊祈禱日

 

 

①中心伽藍②極楽門③石鳥居

 

訪問日:2024年9月

 

所在地:大阪市天王寺区

 

 釈迦が説いた原始仏教において、仏陀とは煩悩を断ち「覚れる者」を指す普通名詞であった。釈迦は煩悩を断ち、輪廻の苦から解き放たれ(解脱)、仏陀となった(成仏)。

 

 釈迦の死後、弟子たちは解脱できる境地(涅槃)に達した人物を阿羅漢と呼び、これを成仏したとは呼ばず、釈迦ただ一人だけが仏陀とされるようになった。

 

 しかし、大乗仏教が成立すると、現世で阿羅漢となることが困難な在家信者であっても、輪廻を繰り返すうちに、いつかは成仏できるのではないかと考えるようになった。

 

 成仏を目指し、修業を積む者(菩薩)は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の六波羅蜜を日々行じるべし、というのが初期の大乗仏教の教えであった。

 

 大乗仏教において、仏や菩薩が住む清浄な国土を浄土と呼び、阿弥陀如来の西方極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃浄土など、種々の浄土があるとされた。

 

 日本では「成仏」がさとりを開いた仏となることではなく、極楽浄土に生まれ変わるといった独特の意味を持ち、死後も霊魂が現世を彷徨うような死に方を「成仏できない」と表現することがある。

 

 浄土教が盛んになると、太陽の沈む西方は、極楽浄土のある方角として、四天王寺の西門・石鳥居は極楽への東門にあたり、西方の海に沈む夕日を拝する聖地として多くの信者が集まった。

 

 

 

①境内②大師堂③山門④女坂⑤寄松塚⑥浪切不動明王

 

訪問日:2024年8月

 

所在地:大阪市阿倍野区

 

 清少納言(966頃-1025頃)『枕草子』、鴨長明(1155-1216)『方丈記』と並ぶ古典日本三大随筆『徒然草』の作者・兼好法師の生涯については、不明な点が多い。

 

 一般的に俗名は「吉田兼好」とされるが、本人は「卜部兼好」と自著しており、没年は観応元年(1350)68歳で死去との記述が残るが、観応元年死去説は否定されている。

 

 『徒然草』は永享3年(1431)僧・正徹が書写した写本(現存)に、その作者を兼好として、その略歴とともに記したことから、正徹の弟子の歌人・連歌師らによって拡散されたようだ。

 

 そして吉田神道の実質的創始者である吉田(卜部)兼倶(1435-1511)が、その権威づけの方策の一つとして、兼好を吉田家と結びつける系譜を捏造した疑いが指摘されている。

 

 事実として、兼好は関東に二度下向しており、延慶元年(1308)鎌倉金沢の称名寺長老・剱阿が六波羅探題・金沢貞顕に宛てた書状を兼好が持参したことが、貞顕の剱阿への返信により確認できる。

 

 金沢文庫には兼好自身が剱阿に宛てた書状の立紙(包み紙)が2通現存しており、いずれも「卜部兼好」と署名している。また二度目の下向の際、旧居が荒廃している様子を和歌に残している。

 

 『徒然草』によると、兼好は応長元年(1311)京都東山に住んでおり、この頃に出家したと思われる。大覚寺統(後醍醐天皇など)との結びつきが強い二条派の歌人としての活動が確認できる。

 

 元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、貞顕も自害した。四条隆資(権中納言1330-1334)を「黄門」とすることなどから『徒然草』成立はこの頃と見られている。

 

 室町幕府が成立以降は、兼好が北朝の要人と接触を持った記録が散見される。ただ高師直の恋文を代筆して失敗したという『太平記』の記述は創作であろう。

 

 兼好遁世の地としては、『兼好歌集』により修学院や比叡山横川が伝わり、仁和寺南の双ヶ丘も所縁の地として知られる。正圓寺との関係は残念ながら確認できず。

 

 

以下、現地案内板より

 

聖天山正圓寺縁起

 

 聖天さんてよく知られている當山の縁起に天慶2年(939)光道和尚の開基に係り、もと東方五町阿倍野村にあり『般若山阿倍野寺』の一坊てあった。壱千年の長い歴史をたどるうちに幾度か寺運の盛衰もあり、近世では元和の役(1615)の兵火に罹り、爾来大いに衰微するに至ったが、幸にして十方施主の外護により法燈今に連綿と続く。

 元禄年中(1688)義道見明和尚が現今の地を相して移転、堂宇を建立、西海を望見し得る老樹の茂る静かな景勝の地形に因んて山号を海照山と改め又寺号を正圓寺と改称した。次いて享保8年(1723)京都より常如和尚(当山第三世)来住聖天堂や、諸堂を再興時に聖天尊への信仰は常如和尚の徳風のもとに頓に盛となり天下茶屋の聖天さんという別称で多くの人から信仰され今日に至る。

 御本尊大聖歓喜天王は有名な慈覚大師(794〜864)が入唐求法に際し船待ちの砌感得、自ら一刀三禮霊木を以て彫像奉安されたものと伝えられこの由場ある歓喜天尊を胎内佛として宝蔵した、日本で最も大きな木彫大聖教喜双身天王が現在の御本尊なり。

 本尊大聖歓喜天尊は、信者の願望に順って福徳財宝を施與し、一切の願望を成就させる誠に宏大な誓願の佛なるが故に心から歓喜天尊におすがりし、祈念する者には霊験極めて顕著にして功德無盡なりすべてのものに対して感謝歓喜の心を持ち、正しい信仰をすることが聖天尊のお心を頂だく唯一の方途なり。

 御縁日 毎月1日と16日には賽者群参し香煙断ゆることなし。山門内には本堂の聖天堂を中心に不動明王を祀る護摩堂、釈迦如来及十六善神を主尊とする和合殿、弘法大师をまつる大師堂、北向延命地蔵で代表される地蔵堂等甍を接している。境内、東方に一幹八枝の霊松聖武帝祈願の『寄松塚』あり、これを中心に白玉稲荷を祭る鎮守堂、八本松竜王拝殿、石切劔箭社祠、石造身代り不動尊外を奉安する当山奥之院等淨域あり。特に寄松塚の松霊たりし八本松龍王は霊験のあらたかなこと世人のよく知る処であり、又特に修行者が今も不思議な霊力を授かる行場として有名なり

 三千数百坪の広い 境内にはこの外に

兼好法師藁打石 徒然草の作者で有名な兼好法師の隠棲時につかわれたと伝えられる藁打石は表参道上り口左裾に『大聖歓喜天』ときざんだ方形の石杭の台礎となっている扁平石がこれである。

国丸狂歌塚 狂歌師雄崎国丸の門人によって、寛政5年11月建立したもの。

紹鴎遺愛の手水鉢 寺庭西隅にあり茶匠武野紹鴎は千利休の師、天神森に住し正圓寺にゆかりを持つ身の上であった関係から残したものと伝えらる。

石像彫刻佛像 石造地蔵尊 二躯  表参道西隅にあり、大きい地蔵尊は、文化二年、他は天保辛卯年に建立。

石造十一面視音 もと修行者の水行者の御本尊であったがこの霊泉枯渇、今は山門下に安置す。

石造不動明王 山門下の一願水掛不動尊これなり享和3年建立

石造増長大多門天 山門下。左右に立って仏法の護持にあたる。嘉永年間に建立。

石造宝篋印塔 二基  安永五丙申年建立と天明癸卯年建立光節尼。

佛戒碑 佛教徒の守るべき戒律を二首の歌に刻んだ碑。

 

 

 聖天さんとは

 

大聖歓喜天という神様の事です。二つの文字を取って通称聖天さんといわれています。

 

歓喜天様は、八万四千もの神々を従え、神様の世界では「最後の守護神」「最強の神様」といわれています。最近では、ドラマや漫画の「夢をかなえるゾウ」の 「ガネーシャ」として登場しました。

 

歓喜天様のお姿は、神様の世界でも珍しく男女が抱擁しているお姿をしています。その事から、「夫婦和合」「恋愛成就」「子宝成就」等の御利益があるとされていますが、「商売繁盛」「開運招福」「開運厄除」「身体健全」等の経済的、身体的、精神的なそれぞれの「諸願成就」 の現世御利益が得られるとされています。

 

歓喜天様は、「他の神様が叶えられない願いも叶えてくれる」「子孫七代の福を一代で成す」といわれ、その現世御利益の凄さから、天皇、将軍、豪商等、時代の権力者や 商人達が熱心に信仰していたことから、多くの方々に信仰され、聖天さんから現世御利益を授かったという多くの逸話や伝説があります。

 

正圓寺の本堂には、木造では日本一の大聖歓喜天像をお祀りさせていただいています。

多くの皆様が、聖天さんの「富と繁栄」「縁結び」「障害の除去」「知恵と学問」などの現世御利益を授かれますように。

 

合掌 正圓寺

 

 

聖天山奥之院の由来

 

ここは聖天山正圓寺境内で、一山の鎮守の神をおまつりする淨域であることから聖天山奥之院と呼ばれている。

鎮守堂を中心に、寄松塚(別称八本松竜王)石切社殿、浪切不動明王、辨財天祠等々が奉安されている。

鎮守堂(別称白玉さん)

御本尊は佛教系の稲荷信仰て霊験あらたかな吒枳尼天をおまつりしている。ダーギニーは梵語の音写て印度古来の神であったが佛法に帰依してからは神通力や法力を持つ護法善神となった。

吒枳尼天お真言

おん、しらばった、にりうん、そわか、

わかりやすく意釈すれば、わが真心はどこまでも通じ、その心は正明なる戒力により悪事災難を除き、福徳智恵を得て、苦を転じて楽となし、悲しみを転じて喜びとなすこと必定なり、と云ふ意味である。

寄松塚(別称八本松竜王)

寺伝によると、聖武天皇が鎮護国家を祈念してこの地に霊實を埋め、その記念として松樹をお手植された処であって、昭和初年までは天をおおう大老松で一大偉観を呈していたと云ふ。この松が一幹八枝の大木てあったのでいつの頃からか八本松と呼ばれていた。この神木に松霊と云はれる竜王様が宿り鎮座されてから世に八本松竜王と尊崇され、理窟では理解し難い不思議な御神徳を垂れたまふことから世人のよく知るところとなる。

昭和20年の大阪空襲で奥之院の諸堂が全焼、さすがの老大木も半ば炭化した古株を残すのみとなった。

然し幸にも吒枳尼天像及び八本松竜王御神体は戦災をまぬがれ現存、この種の御尊像は畿内でも数すくない貴重な秘寶である。

石切社分祠

「世上はれものを患らう者祈れば霊験あり」で有名な石切劔箭神社の分祠で、本社への参詣に暇なき人々のためにここに勧請された。

浪切不動明王

毎月1日、16日には当処で行者護摩が奉修されている。

辨財天祠

嚴島弁天(日本三大弁天の一)と淡路島巡遷弁天を合祠している。

 

現在奥之院におまつりされている竜王さん、お稲荷さん、お不動さん、石切さん、弁天さん等はすべて商売繁昌、家内安全、産業守護、海上安全、開運出世、芸能上達等々現世のあらゆる福を授けて下さる福神として多くの方々から尊信されている、又修行者が当処で今もなほ不思議な霊感、霊力を授かる行場としても大変有名である。

どうか一人でも多く御参詣下され、あらたかな勝縁に恵まれます様おすすめ致します。

 

 

大阪市顕彰史跡第236号

 聖天山(北天狗塚)古墳  (阿倍野区松虫通3丁目)

 

昭和26(1951)年、正圓寺北方約50mのこの地に横穴式石室墳が発見され、石室内から須恵器壺・提瓶、鉄刀数点、ガラス製小玉、琥珀製棗玉が出土した。聖天山にはこうした古墳が群集していたとみられる。

 

大阪市教育委員会

 

聖天山(北天狗塚)古墳(阿倍野区松虫通3丁目)【大阪市顕彰史跡第236号】

 

 上町台地西斜面の高所にあって大阪湾を一望できるこの地は「聖天山古墳」という埋蔵文化財包蔵地となっている。その範囲がほぼ字北天狗塚と重なることから北天狗塚古墳と呼ばれることもある。

 昭和26年11月、現在の聖天山公園一帯で行われていた土採り工事の最中に土器や鉄刀が発見され、通報を受けた大阪府教育委員会によって発掘調査が行われた。調査担当者は後に関西考古学会の重鎮となる藤澤一夫氏(当時38歳)であった。調査の結果、玄室内から多数の副葬品や人骨が出土し、6世紀後半に築かれた横穴式石室をもつ直径十数mの円墳の存在が明らかにされた。恐らく、同じような構造や規模をもつ古墳が周辺に群集していたと推測される。

 また一方、公園の南側にある正圓寺境内については、その平面形から西側に前方部をもつ前方後円墳ではないかとする考えも出されている。平成29年にそこで行われた調査では5世紀代の埴輪も出土しており、聖天山公園一帯には5〜6世紀に築造された複数の古墳が存在していたと考えられる。

 

 

 

①光善寺本堂②光善寺境内③脇門と太鼓楼④山門⑤土塁⑥環濠

 

訪問日:2024年9月

 

所在地:大阪府枚方市

 

 順如は、嘉吉2年(1442)本願寺7世・存如の長子である蓮如の長男として生まれた。母は伊勢氏の庶流・伊勢貞房の娘で、蓮如の最初の妻である如了尼(1424-55)。

 

 長禄元年(1457)存如の死去により父・蓮如が本願寺8世となる。長禄2年(1458)順如は本願寺住持家の宗家(親鸞の実家)・日野勝光の猶子として大僧正・実助のもとで得度する。

 

 延暦寺と対立した蓮如は、寛正6年(1465)仏敵認定を受け、延暦寺西塔の衆徒らにより大谷本願寺を破却されて、親鸞御影を奉じて近江の金森・堅田・大津を転々とする(寛正の法難)。

 

 文正元年(1466)順如は法嗣に指名されるが、応仁元年(1467)蓮如が延暦寺に降伏すると、その条件として蓮如の隠居とともに、順如の廃嫡が盛り込まれた。

 

 応仁3年(1469)延暦寺と敵対する園城寺の保護を受け、別所近松寺の敷地に顕証寺(現・本願寺近松別院)を建立して親鸞御影を安置し、順如が住持となった。

 

 北陸布教のため畿内を離れた蓮如は、文明3年(1471)越前吉崎御坊を建立し、急速な発展を遂げる。この間、畿内における活動は順如が担い、協議のためたびたび吉崎にも訪れている。

 

 文明7年(1475)加賀門徒と守護・富樫政親の対立が深まると、順如は吉崎に乗り込み、側近の下間蓮崇の反対を退けて、蓮如とその家族を吉崎から退去させた。蓮崇はその後破門となる。

 

 蓮如は河内国出口に落ち着き、出口御坊光善寺を建立して寺内町が形成される。文明10年(1478)蓮如が本願寺再興のため山科に移ると、順如が顕証寺から移り、光善寺2世となった。

 

 文明13年(1481)順如の仲介により、真宗仏光寺派の経豪が48坊のうち42坊を引き連れて本願寺派に合流した。経豪は蓮教と改名し、山科本願寺の南側に興正寺を建立した。

 

 しかし順如は、文明15年(1483)父に先立ち顕証寺にて42歳で示寂した。光善寺は甥の光淳(常楽寺蓮覚と同母妹・如慶の子)が婿養子として継承した。

 

 

以下、現地案内板より

 

枚方市指定史跡

 光善寺(出口御坊跡)

 

 出口は、文明7年(1475)本願寺第八世蓮如上人が建立した御坊を中心に発達した寺内町である。寺内町は、室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のことをいう。蓮如上人は御坊(のちの光善寺)を拠点に摂津・河内・ 和泉で布教活動を行い、三年後、山城に創建した山科本願寺に移った。

 蓮如上人の死後、光善寺は戦国乱世の中で退転を余儀なくされ、旧地に復したのは慶長年間(1596〜1615)であった。広大な寺域と御堂・山門・通用門・鐘楼・太鼓楼・書院・庭園などの江戸時代の伽藍を残し、寺内町の核としての風格を今に伝えている。その景観は、「河内名所図会」(享和元年刊)にみえるものとよく一致し、江戸後期にさかのぼるものである。伽藍の近世建築には、17世紀の山門および脇門、 江戸中期の数寄屋風書院があり、天明2年(1782)の御堂、同7年の太鼓楼等がある。

 

2010年4月 枚方市教育委員会

 

 

光善寺のサイカチ

 

 サイカチは、マメ科の落葉高木で、幹・枝に多数の棘があり、葉は複葉、淡い黄緑色の小さな花が咲きます。長さ30cm余りの豆果は、サポニンを含むため洗濯用の洗剤として用いたり、生業として去痰や利尿剤にも利用されました。

 境内を北西にあるサイカチは樹齢200〜250年、幹周り2.5m、樹高12mで、府内では幹周り2mを超えるものはほとんど見られません。昭和50年(1975)に、大阪府指定文化財(天然記念物)になりました。 また、平成25〜27年(2013〜2015)には樹勢回復のための治療が行われました。

 光善寺のサイカチには龍女伝説があります。室町時代、浄土真宗中興の祖である蓮如上人が。出口で説法をしていた時、毎晩熱心に聴聞する美女がいました。ある夜、「私はこのあたりの大池に住む大蛇です。上人の説法により功徳を得て昇天できることになりました。この池を上人に献上しますので、埋めたてて御堂を建立して下さい。」と言って姿を消し、大池のそばのサイカチから昇天したといいます。

 

平成28年(2018)3月  枚方市教育委員会