ぼくの側にいたお佐久ちゃんは、壁を向いたまま、細い肩をふるわせていました。
「脳挫傷、全身打撲、それによる複雑骨折に内臓破裂。そんなところか。目立つ外傷はないのが救いじゃないかね」
傍らにおかれたランプは、穏やかな表情で洗面器で手を洗う霧渕博士の影を、大きくゆらゆらと映し出していました。
博士の見下ろす治療台には、全裸にされた一郎太くんが仰向けになっていました。
「それじゃ、やはり一郎太君は……」
思い余ったぼくは霧渕博士に訊ねたのですが、博士はそれを遮るようにいいました。
「大丈夫、すぐにある種の意識は蘇る。後は一郎太が、どこまで自分自身の肉体を維持できるかが問題だがね。さあ、準備にかかろう。加藤君、冷房装置のレバーを下げてくれ、もっともっと室温を下げるのだ。それに、今ある塩では量が足りない。お佐久は純粋な塩を都合してくれたまえ、大至急だ」
霧渕博士の言葉に従い、お佐久ちゃんは慌てて治療室のある蔵から飛び出して行きました。
ぼくは霧渕博士に云われるままにレバーを握り締め、冷房を強くしていきました。次第に冷房装置が発するうなりは低く、大きくなり、排出口からは白く重い煙が大量に溢れ出します。やがてその室温計は……マイナス30度……真冬の北海道、最北端の気温をはるかにしのぐ、全てが凍りつく温度まで下がりました。
「手伝わせてすまないね、加藤君。これから一郎太に施す処置は、お佐久には少々酷だろうからね。こんな時間に塩を買い求めるには、なかなか骨が折れるだろうが、そんな用事を言いつければ気の紛れになるだろう。わかってくれるね」
ぼくは頭から毛布をかぶり、冷房装置のよこでがちがちと歯を鳴らしながら、膝をかかえておりました。ですが、異常な冷気の中でも、霧渕博士は寒がることもなく、むしろ、生き生きと活気に満ち、楽しそうでさえありました。
「思うのだが加藤君、年齢よりも幼いところがある一郎太に、肉体の維持は大きな負担になりはしないだろうか。処置が終われば、一郎太は成長することなく、永遠にこのままだからね。いずれ佐久は先に逝ってしまうのだから、頼れないだろう」
霧渕博士は細長い注ぎ口がついたブリキの容器で、ねっとりとした液体を一郎太にかけました。
「は、博士は……なにを、な、なさろうと……」
「水銀と塩、それに硫黄を加えた合成蛋白の混合液を、血管に注入することを思いついたのだ。毛細血管の隅々まで行渡るように……いいね、その手があったよ。なぜ気が付かなかったのかな」
一郎太君の鼻孔、首筋、両手首などから無数に枝分かれした管は枕元の不気味な機器に伸びていき、心臓を思わせるポンプが小さく脈を打ちはじめました。
「肉体の腐敗を促進させ、骨格と血管、それに脳髄とわずかな臓物だけにするのだ。百年でも千年でも、いや、理論的には永遠に、肉体の維持から開放されるのだ。そうだ、そうしてやるぞ一郎太」
霧渕博士は脈の調子をうかがいながら、無数にならんだ小さなコックを、一つ一つ丁寧に捻っていきました。
「なんだって、一郎太君を骸骨の怪物に仕立て上げようと……そんな、惨い。彼はあなたの実験材料じゃない、猿の標本とは違うんだ!」
思わずぼくは、立ち上がって叫んでいました。
「なぜそれを知っている」
両肩からへその下まで、T字型に切開された一郎太君を前にして、霧渕博士は背中を丸めたまま、肩越しに振り向き、据わった目でぼくを睨みました。
その恐ろしいまでに冷ややかな目つきに、ぼくは腰が抜けたようになり、再び床に座り込んでしまいました。
「調べたのかね。事実はなにもわかるまいが、あの頃とは事情が違う。すでに実験は終わったのだよ加藤君、言葉を慎みたまえ」
一瞬、炎がゆらっと動いたような、それでいてとても粘液質で、例えて言うなら今までに見たこともない”狂気”の笑顔を見せて、霧渕博士は鋭く光るメスを持ち替えて一郎太君の処置に戻りました。
「私だって必死なのだ。痛みは無くとも肉体崩壊の恐怖と維持の辛さは、きみの親不知の比ではないのだよ。夜明けまで待ちたまえよ加藤君。一郎太の処置がひと段落ついたら、処置を施してあげようかね。やぶさかでないよ。さすればきみは歯痛から開放される。死ぬまで……いや、死と引き換えに……」
このときぼくは、霧渕博士の狂った思考を理解したように感じました。人間の不老を超え、もはや不老のためなら人間でなくてはよいと。
そして、冷房装置から流れ出る二酸化炭素で、薄れていく意識の中、ぼくは気が付きました。霧渕博士は……息をしていないと……。
