間もなく一郎太君は、大きな湯呑みをのせた盆を持ってやってきました。ぼくは礼を言いその湯呑みを受け取ると、一郎太君はにっこりと微笑み静かに出て行きました。微笑む一郎太君は姉に似て、とても可愛い表情を見せたのでした。
霧渕博士はそんなことには構わずに、後ろ手を組んだままゆっくりと歩き回って回想にふけっていました。
「私は瀬戸内で、ある病気の研究をしていてね。あれは大正四年……三十五歳のころかな」
「瀬戸内というと、ハンセン病の隔離施設がありましたね」
「その通り、まさにその治療法を模索していたのだがその六年後に、同盟国であるドイツから偉大な医学博士、フランク・シュテルンが来日してね、私は彼の研究を手伝うことになった」
霧渕博士の話を聞きながら、ぼくは薬を服むために湯呑みの白湯で口を潤しました。
「私は喜んでね。なにしろそれはナチス錬金術なのだから」
霧渕博士は足を止めて、懐かしむように笑を浮かべました。
「ああ、聞いたことがあります。ヒトラーが軍事資金のために、黄金を人工的に造らせているとか……」
「その通りだよ君、さすがは新聞記者じゃないか」
霧渕博士は再び背中を丸めて歩き出しました。
「いえ、軍事資金とはいえ、錬金術で黄金をこさえるなんて、黄金の価値を下げるだけで、なんの役にも立たないって話を聞いたものですから」
ぼくは霧渕博士を目で追いながら言いました。
「さよう、愚かなことだよ。更には軟らかい黄金など、兵士の甲冑にもならんだろうしね。だがもうひとつ、ヒトラーが望んだ究極的なものがある」
「究極的なもの……?」
思わずぼくは聞き返しました。
「中世の錬金術師、ニコラ・フラメルやパラケルススが『賢者の石』と呼んだもの……私たち医学者はそれを研究していたのだ」
「それはいったい……」
ぼくは三角の包み紙を開いて、粉薬を口に運びました。
「不老不死」
何故か嬉しそうにそう言いながら顔を近づけてきて、鼻眼鏡の奥で薄気味悪く微笑むのでした。
思わずぼくは咽て粉薬を吹き出してしまい、博士その嬉しそうな笑顔を白くしてしまいました。
ぼくは更に粉を吹きながら、慌てて湯呑みの白湯を飲み干しました。
「し、失敬……不老不死って……それが錬金術とどう関係するのですか……?」
「黄金が錆びないのは、極めて組織が安定しているからだ。それに比べて他の金属は鉄、銅、銀の順で錆びていく。黄金以外の金属は病んでいる。病んでいるから錆びるのだ。したがって病んでいる金属を精錬し、余分なものを取り除けば良い。人体も同じことなのだ」
霧渕博士はゆったりと椅子に腰掛け、ハンカチで鼻眼鏡のレンズを神経質に磨きました。
「蛇が己の尻尾を喰らうがごとき……己を喰らい、己を殺し、己を育てる。完全なる自己完結……それがシュテルン博士の理想だった」
「あの……よくわからないのですが……」
霧渕博士は鼻眼鏡を掛けなおし、右手の人差し指で椅子の肘掛をとんとんと叩きながら話を続けました。
「十年前、私は大病を患ってしまってね。シュテルン博士が治療を施してくれたのだが、彼も二年前に亡くなってしまった。私ひとりになってしまった研究所は、すぐ政府の手によって閉鎖されてしまったのだ。まあ、加藤君が懸念するような、向日葵を腐らせる毒物はないよ。私も昨年から身体の調子を悪くしていてね、そういうものには敏感なのだ」
とにかく次から次へと語られるとっぴな話に、ぼくはすっかり度肝を抜かれました。しかし学者には、質の悪い冗談を好む人が多いと聞いていましたので、ぼくはそのまま聞き流すことにしました。
「来たまえ、私の研究室を案内しよう」
霧渕博士はすっと立ち上がり、土蔵の扉へぼくを促しました。