市場外の商店街は、朝からたくさんの人々で賑わっていました。市場客が相手ですから、夜明け前から店を開けて、お昼ごろには閉店するところが多いので、蕎麦屋の並びには食器や調理器具の店がならび、通りの向かいには干物や昆布などを売っている乾物屋が軒を連ねておりました。
ぼくが気にしてる人はまだ二十歳前くらいで、長いおかっぱ頭の髪を後ろに引っ詰めていました。いつもの真っ白な割烹着姿で幼い弟を連れて乾物屋で買い物をするのが毎朝の習慣のようでした。
今朝は鰹節を笊に並べて干している店主に、姉弟の弟と同じ年頃の少年が店主の背中にじゃれてきました。
「父ちゃん、朝ごはんだって!」
「おう、そうか。味噌汁の実はなんだい」
「カブと油揚げ!」
「カブか、ありゃあ甘くて旨いな」
店主はそのまま少年を背中におぶり、店内に帰っていきました。
「ねね、姉ちゃん……」
おかっぱ頭の姉に弟は切ない表情で言いました。
「ねえ、一郎太。先生は身寄りのない私たちを引き取ってくださったんだよ。父ちゃんも母ちゃんも居ないのは私だって寂しいよ。でも、先生がいてくださるだけでも幸せだよ。感謝しなくちゃね」
うん、と頷く弟の後ろ姿が見えました。
出勤時間が近づいたので、急いで蕎麦をたぐりって店を出たぼくは、電車通りを渡ってすぐにある大きな石の丸柱がある建物に入りました。
東都日報新聞の見出し。
『料理店主殺し、阿部定(32)が新たな自供。阿部定のパトロンとされている、市議会議員で私立学校校長の大宮氏が証言する』
『二・二六事件、公判滞る』
高い天井にある、大きな扇風機がべたつく空気をかき回し、あちこちの机から電話の音がせわしなく聞こえてきました。
記者たちの声がざわざわと響く、いつのも朝の喧騒であります。
ぼくは机の上に置かれた、まだ刷りたてでインクの臭いがする新聞を手に取って席に着きました。そして記事を眺めながら小さな包み紙の歯痛薬を、カップの水で一気に飲み干しました。
「痛──」
水の冷たさに思わず頬を押さえていると、広げた新聞の上に一通の封書が置かれました。背後には髪を油ですっかりと後ろに撫で付け、口髭が自慢の辛島編集長が立っていました。五十がらみの洒落者であります。
「おはよう加藤くん。早速すまないが、読者からの投書なのだ。なかなか奇怪な内容なんだが、現場も遠くないし、ひとつ取材に行ってくれないか」
ぼくは歯痛にいらいらしながらも、便箋を広げました。
便箋。
『一昨年の秋、奇妙なお医者様が引っ越してこられまして、診療所をされておりました。それが昨年の春、突然廃業されまして、それからというもの、近所にあります向日葵畑が腐ったようになってしまったので御座います。なにか有害なお薬を廃棄された影響ではないかと、とても不安になりまして筆をとらせて戴きました。失礼ながらよろしくお願いいたします。かしこ』
ぼくは自転車を走らせました。煉瓦通りを抜けると、隅田川のほとり……永代橋の傍らに、向日葵畑はありました。本来なら夏の日差しに向日葵は輝いているのでしょうが、所々壊れた柵に囲まれた向日葵畑は死人たちの群れのように頭を垂れ、腐り果て、腐臭を放っており、その無残な姿にぼくは戦慄を覚えました。
その腐った向日葵畑の向こう側でした。古びた土蔵が聳え立つ診療所、霧渕博士の邸宅があったのは……。