ちりーん、りりーん。
ぎらぎらと、真夏の太陽が照りつける朝。
咲き乱れる向日葵畑の前には、麦藁帽子を被った風鈴売りの老人が屋台を止めて、呆然と土蔵を見上げておりました。
薄暗い土蔵の中で、お佐久ちゃんは気がふれてしまったのであります。
ぺたんと腰を落とし──
濡れた髪は振り乱れ──
乱れた着物の裾から白い膝小僧を覗かせ──
割烹着や白い頬はべたべたと黒いもので汚れておりました。
不謹慎ですが、その時のお佐久ちゃんは……
狂った笑みを浮かべたお佐久ちゃんは……
本当に、本当に美しかったのでありました……。
昭和十一年(1936)九月。
うっそうと立ち並ぶ樹木と苛立つほど響き渡る蝉の音に、苔むした重厚な石造りの建物はその佇まいをひっそりと隠していた。
東京は下町にある八名川警察署である。
「今年の残暑はきびしいな、あ? 加藤よ」
金属製の黒い扇風機がばらばらとうなりを上げる狭い取調室では、四十代後半の痩せた刑事がじっとりと汗ばんだ開襟シャツの背中を向けて、窓から樹木を眺めていた。片隅の机では制服警官が帳面を広げ、地味に記録を執っていた。
「警察なんざ因果なもんでな、今までべらぼうな数の仏さんを拝んできちまったが……だけどよ、前代未聞なんだよ、こんだけ薄気味悪いヤマはよ。お前さんの話し、全部聞かせてもらうか、あ? 加藤よ」
乱暴に椅子に掛ける刑事は扇子で扇ぎながら片足を机に載せ、鋭い眼光で正面に座る加藤を見据えた。
まだ二十代の加藤純夫は、この湿度の高い季節に、きちんと喉元までボタンをかけた詰襟シャツに和服を羽織り、やつれた顔には不思議と汗もなく俯いていた。
「……あの、ぼくは、東都日報社会部の新聞記者でありまして、その日の朝も、去年開場いたしました築地市場で電車を降り、顔なじみの蕎麦屋で食事をするところでありました……暦の上では秋なのですが、まだ暑さが盛りの八月のことでありました。市場前の大通りに停まったチンチン電車から、大勢の乗客に混じって降りたぼくは、車内の熱気から解放された勢いで、ハンチングを脱いで手ぬぐいで顔を拭き、蕎麦屋に向かいました。蕎麦屋は簡素な材木で建てられていまして、ただっ広い屋根があるだけの土間には職人、商人、勤め人の客が立ち食いでごったがえしておりまして、まだ風通しがある店先にあふれた客は、魚河岸の木箱に腰掛けて蕎麦をたぐっている次第であります。ぼくはその客の間を割って入って行き、顔なじみのおばちゃんに掛け蕎麦を注文したのでありました」
「え? いつもの冷たい蕎麦じゃなくていいのかい?」
ぼくの母親ほどのおばちゃんは手を止めて聞き返してきました。
「うん、また歯が痛み出してね、冷たいのは沁みるんだよ。夏場の歯痛は鬱陶しいね、まったく」
いつもは丼に蕎麦と汁をぶっかけて、揚げ玉を載せてもらった狸蕎麦を好んでいたのでありました。ただの冷たい掛け蕎麦や盛り蕎麦よりも、揚げ玉があると腹持ちが違うのであります。
ぼくは蕎麦が茹で上がるまで、まるで吹き晒しで大きな窓から外を眺めていました。いつもその時間に通りかかる姉弟、それまでは名も知らぬ姉の笑顔を見るのを、ぼくは楽しみにしていたからであります。
「お待ちどうさん。お兄ちゃん、玉子おまけしといたよ」
おばちゃんはぼくの前に、生卵の白身がうっすらと曇った蕎麦をだしてくれました。
「あ、ああ……いいのかい? ありがとう」
ぼくは丼を受け取り、汁を一口すすりました。
「こないだ時計を直してくれたからね、たいした腕前だよ、勤め人じゃあもったいないよ」
「なに、お安い御用だよ。機械いじりは大好きだからね」
ぼくとおばちゃんは厨房の奥にある、八時を回ろうとする柱時計を眺めました。
その時です。ぼくが気にしていたいつのも姉弟が楽しそうに会話しながら歩いているのが見えたのであります。
ぼくは思わず丼を手にしたまま窓から身を乗り出し、姉弟の行方を眼で追っかけました。