この曲は、NMB48の21stシングル「母校へ帰れ!」の表題曲です。
1番Aメロ
人間(ひと)はいくつになったって (愚かで)
失敗ばかりをするものだ (何度も)
頑張っていたって ダメな時もあるさ
そんなに落ち込むな
至極当然のことを言っていますよね。
子供であろうが大人であろうが、成功するときは成功するだろうし、失敗するときは失敗する。
頑張っているのに上手くいかなければ落ち込みもするでしょう。
けれども、常に成功していて失敗したことがない人などいませんし、なんなら多くの人にとって、成功よりも失敗の方が圧倒的に多いのが普通なのではありませんかね。
そう考えてみると、失敗したからといって自己嫌悪に陥ったり、自己否定してみたりなどする必要はないのですよね。
失敗しても、どうしてもやり遂げたいのであれば、何度でも挑戦してみれば良いし、もうこりごりだと諦めがつくのであれば、気持ちを切り替えて別の方向に進めば良いのです。
いつまでも落ち込んでいたところでどうにかなるわけでもありませんので。
1番Bメロ
いつの間にか君も僕も
大人になってしまったんだ
何も成長していない
自己嫌悪に陥るのさ
どうやって 生きて行けばいいんだ?
もう 死にたくなって来たよ
年齢を重ねていくにつれて、知識やスキル、社会で生きて行くための術なども身に付けていきます。
そうやって大人になっていきますけれども、だからといって万事上手くやっていけるようになるわけではありません。
大人になっても上手くいかないときは、やはり上手くいかないものです。
そもそも何かをなそうとする際、自分の中だけで完結できることなどまずありません。
外部の環境やその時の状況、あるいは他者など、自分の思い通りにはコントロールできないさまざまな要素が複雑に絡みあいながら関わってきて、どうしたってそうしたものに影響を受けてしまう。
優れた能力やスキルを持っていれば、その分成功の可能性は高まるでしょう。
とはいえ、確実な成功を保証しているわけではないのですよね。
また、努力するのは当然としても、だからといって、どれほど努力しようとも、どうにもならないときにはどうにもならないものです。
ですから、必ずしも成長していないから上手くいかないというわけではないのです。
ただ、大人になることでさまざまな経験も積み、それなりに自信も付いてきて、自尊心も大きくなっているでしょうから、失敗したときに受ける精神的なダメージは、子供の頃よりも大きいかもしれません。
そのせいなのでしょうか、激しい自己嫌悪に陥って「どうやって 生きて行けばいいんだ? もう 死にたくなって来たよ」などという絶望的な言葉が口をついて出てきてしまう。
1サビ
さあ 母校へ帰れ!
人生の道 迷ったら
一度来た道 引き返して
あの校庭に立つんだ
さあ 母校へ帰れ!
見失ってしまった夢は
教室の机の中
また一から
探そうか
「母校へ帰れ」というのは、世阿弥が説いた「初心忘るべからず」のメタファーなのでしょう。
行き詰ったときには、原点に立ち返ってみようということで、その原点の在処を「母校」に求めたわけです。
その「母校」とは、小学校なのか中学校なのか高校なのか、あるいはもしかしたら大学なのか、人それぞれでしょう。
なぜなら、初めて夢を抱いたり志を立てたりした時期は人によって異なるからです。
小学校の低学年で自分のやりたいことを既に決めている早熟な子もいれば、高校卒業時点でもまだ自分が何をやりたいのか見出せていないという人もいるでしょう。
その意味で、初心の場所となった学校こそが、その人の「母校」といえるわけです。
そんな「母校」に帰ってみれば、まだ何者でもなく何もできなかった頃の純粋な気持ちが蘇ってくるはず。
そうすれば、また一から始められるのではありませんかね。
2番Aメロ
太陽があっと言う間に (沈んで)
消えてしまうなんて知らなかった (今まで)
このベンチに座って ずっと眺めてたから
やっと気づいたんだ
主人公は、太陽があっという間に沈んでしまうことも忘れるほど、日々の忙しさに追われていたのでしょう。
ベンチに腰掛けて沈みゆく夕陽を眺めていて、自分がいかに心のゆとりを失っていたかに、今更ながら気付いたのです。
2番Bメロ
生きることに必死すぎて
大事なことを見逃していた
まわりの景色も変わる
街の灯りも一斉に
灯(とも)ったわけじゃなかった
なぜ 取り残された気がする?
目の前のことに必死になり過ぎると視野が狭くなって、周りで起きていることが目に入らなくなってくる。
そうなると、大事なことを見逃してしまうというのです。
では、その大事なこととは何なのでしょうか?
「街の灯りも一斉に 灯(とも)ったわけじゃなかった」とありますが、これは、人生における成長や成果のタイミングは人それぞれであるということの比喩表現です。
夕暮れから夜にかけて街の明かりが灯るとき、皆一斉に灯るわけではなく、家や店舗、街灯がそれぞれのタイミングで1つずつ灯っていきます。
人も皆それぞれ異なるのですから、成長の仕方やペース、結果を出すタイミングも皆異なっていて当然なのです。
周囲の人たちが自分より先に結果を出したりすると、なんだか取り残されたようで焦ってしまうけれども、他者と比較しても何も意味はないわけです。
見逃していた大事なこととは、他者は他者であり自分は自分だという、そんな単純なことなのではありませんかね。
他者に振り回されることなく自分は自分のペースで歩いて行けば良いのです。
2サビ
さあ 母校へ帰れ!
帰る場所がなくなったら
いつだって戻って来い
あの言葉を
思い出す
帰る場所がなくなったら母校へ帰れば良いとは言うものの、近年は少子化のあおりで学校の統廃合が進められているため、自分の母校がいつの間にかなくなっていたなんてこともあるわけです。
「母校」とは、ずっとそこにあり続けているものと何となく思っていたけれども、今やそんなことはなくなってしまったということなのでしょう。
昔の面影を残している田舎に故郷を持っている人は、そこに帰れば、いつだって子供の頃抱いていた気持ちを呼び戻せるでしょう。
けれどもそうではない人は、母校もなくってしまうと、もう現実世界にはそうした意味での帰る場所は存在しないことになります。
かろうじて、記憶の奥底に仕舞い込んである懐かしい思い出だけが、そのよすがとなるのかもしれません。
普段はほとんど考えることもないけれども、やはり自分の母校がなくなってしまうというのは、なんだか寂しいものですよね。
良きにつけ悪しきにつけ、子供の頃の思い出が詰まった場所なのですから。
ラスサビ
さあ 母校へ帰れ!
もしも泣きたくなったら
あの懐かしい校庭へ
涙を捨てに行けよ
さあ 母校へ帰れ!
何もできなかった自分
あの頃を思い出して
やり直そう
もう一度
挫けそうになったとき、弱音を吐き出しに行ける場所。
打ちのめされたとき、悔し涙を捨てに行く場所。
そして、人生に迷ったとき、何もできなかった頃の自分を思い出すための場所。
そんな、心の拠り所になる場所を「母校」で象徴させているわけです。
「母校」に帰れば、子供の頃に抱いていた純粋な気持ちが蘇ってきて、失った夢や自分らしさを取り戻せる。
そうすれば、原点に立ち返り、もう一度歩み出せるのではないか。
そうここでは主張しているわけです。
失敗や挫折で人生に行き詰ったときには、原点に戻って自分を見つめ直してみることも必要でしょう。
そのためには、夢を抱いたり志を立てたりしていた頃の純粋な気持ちを蘇らせてくれる「心の拠り所」がなければなりません。
その「心の拠り所」とは、それこそ母校であったり故郷であったりといった場所のこともあれば、何かしらの大事なモノであったり、あるいは家族や仲間や恋人といった大切な人であったりするわけです。
そうした「心の拠り所」があることによって、人は何度でも原点に戻って立ち上がることができるのです。
この曲は、原点に返ることの大切さを歌っていますけれども、それと同時に、原点に返るための「心の拠り所」の大切さも歌っているのではないでしょうか。
秋元康 作詞, 永見和也 作曲, 永見和也 編曲
NMB48「母校へ帰れ!」(2019年)
