この曲は、SKE48の曲ではあるのですけれども、AKB48の39thシングル「Green Flash」のカップリング曲として収録されている曲となっています。

 

 

1番Aメロ

テレビが伝えてる悲しい出来事を
淡々と伝えるニュースキャスター
すでに用意された原稿 間違えないように
機械的に読み上げてた

ニュースを機械的に淡々と読むのは、なにもニュースキャスターが冷徹な人だからというわけではなくて、そういう仕事なのですから仕方ありませんよね。
ニュースキャスターであっても、ひとりの人間としては、いろいろなニュースに接して当然さまざまな感情が湧き上がってくるはずです。
だからといって、感情を露わにしてニュースを伝えられても、視聴者側としては、はなはだ困惑することになってしまう。
テレビを通じて独りよがりな気持ちを押し付けられても、そのニュースの受け止め方は人それぞれなわけですから。
伝えられる側としては、出来事をそのまま冷静に伝えてくれた方が良いわけです。
そう考えると、無感情に機械的に伝えるというのは、ある意味正しいあり方なのではありませんかね。

 

ここでは、そうした感情を無くしたかのような態度に対する批判(?)ではなく、どんなに悲惨な出来事もリアリティーが失われて、ただ単なるひとつの情報として消費されているという現実に対する戸惑いを表しているのではないでしょうか。

1番Bメロ

人はどんなつらいことにも
そのうち慣れてしまう
傷口から目を背(そむ)けて 痛み忘れ…

慣れというものは、人にとって都合の良いものですよね。
どんなにつらく悲しい出来事でも、時が経つにつれてその苦痛の記憶はだんだんと薄れていく。
また、つらく悲しい出来事も、それが何度もくり返されていると、そのうち感覚が麻痺してきて、何とも思わなくなるとまでは言わないまでも、次第にそれほど衝撃もダメージも受けなくなってくる。
そうしたことからすると、「慣れ」というのは、もしかしたら防衛機制の一種なのかもしれませんね。
精神的な苦痛が薄れることなく持続し続けたり、同じ苦痛を何度も受けて、その都度同じダメージを受けていたのでは、心の安定を保つのが難しくなってきますから。

 

「慣れ」には、そのように人の精神衛生上都合の良い面もある一方で、どんなに衝撃的な出来事であっても、それが自分のことであるか他者のことであるかにかかわらず、無関心、無感覚になってきてしまうという負の側面もあるのではないでしょうか。
自分に降りかかる出来事には無頓着になり、他者に降りかかる出来事には想像力が働かなくなるという危険性もあるということです。

1サビ

もしも
世界が泣いてるなら
僕も号泣しよう
何事もなかった
そんなふりなんてできない
誰かが泣いてるなら
その場に立ち止まろう
無関心のままじゃ
僕は生きている価値がないよ

「世界が泣いてる」というのは、戦争やテロ、あるいは大災害など、そうした事態に巻き込まれて悲惨な目に遭っている多くの人々がいるという状況を指しているのでしょう。
そんな悲惨な状況から目を背けることなく、つらく苦しい思いをしている人々に思いを馳せようということなのでしょう。
しかも、「僕も号泣しよう」というのですから、ただ悲しむだけではなく、その苦しみや痛みを共有しようとしているわけです。

 

とはいえ、そんなことが果たしてできるのでしょうか……。
悲惨な目に遭って、つらく苦しい思いをしている人など世界中のいたるところに存在しているのですから、そのひとりひとりに共感を示して思いを致すなんてことは現実的には不可能ですよね。
となると、「もしも 世界が泣いてるなら 僕も号泣しよう」と言ったところで、そんなのは善人ぶった者の言葉遊びにすぎないということになってしまう。

 

そうした(そし)りの声が聞こえてきそうでもなお「無関心のままじゃ 僕は生きている価値がないよ」というわけです。
確かに、「僕」が誰かの苦しみに共感したところで、その誰かは救われるわけではないし、そもそも「僕」が共感していることなど知ろうはずもないのですよね。
つまり、本気で共感しても、所詮(しょせん)は「僕」の自己満足でしかないのかもしれない。
だとしても、「僕」が人として存在している意義を「僕」自身が確認するために、他者の苦しみや痛みを自分のものとして感じ取ろうとしているということなのではありませんかね。

2番Aメロ

新聞の一面 生々しい涙
争いの連鎖は絶望の道
どこで誰と握手をすれば 白い鳩が飛ぶか
賢い人 教えてくれ

新聞という紙媒体を通じてもなお、悲劇の生々しさが伝わってくるということでしょうか。
紙面では映像に比べてリアリティにおいて格段に劣るとはいえ、それでも生々しい現実がひしひしと伝わってくるということを言いたいのかもしれませんね。

 

ここでは、争いの連鎖、それはとりもなおさず憎しみの連鎖でもあるわけですけれども、そうした負の連鎖が延々と続いている現実を前にして、「僕」は無力感に打ちひしがれているわけです。
「絶望の道」というフレーズが、そのやるせない思いを強調していますよね。

 

それにしても、ここを見る限り、どうやらこの「僕」が「世界が泣いてる」と憂えているのは、どこかで起こっている戦争のことのようですね。
だとすると、あまり露わには歌っていませんけれども、この曲は反戦歌ということになるのでしょうかね。

 

「白い鳩」というのは、言うまでもなく平和を象徴していて、どうすれば平和が訪れるのか、「賢い人」に問いかけている。
誰もが望んでいるはずの平和。
それを手に入れるためにはどうすれば良いのか……。
平和を実現することの困難さに、途方に暮れてしまっているといったところでしょうか。

 

この「賢い人 教えてくれ」というフレーズには、辛辣(しんらつ)な皮肉が込められているのではありませんかね。
世界の指導者と称される人たちが「賢い人」たちであるならば、平和を実現させることはできるはず。
少なくとも、平和への道筋をつけることくらいできるはずなのですよね。
けれども現実はそうはなっていない。
彼らの「賢さ」は一体どこに使われているのやら……。
20世紀という未曽有(みぞう)の殺戮の世紀を経てなお、この世界では未だに同じような愚行が繰り返されている。

2番Bメロ

胸が苦しくなった人は
ニュースを切り替えて
きっと笑える動画でも見るのだろう

日々悲惨なニュースばかり見聞きしていると、いい加減うんざりしてきますよね。
自分とは直接かかわりのないことだとしても、人が苦しんだり悲しんだりしている姿を見るのは、胸が苦しくなってくるもの。
そんな嫌な気分から逃れるために、何か楽しいことに目を向けるというのは、人の心理としては普通なことではありませんかね。

 

ただ、それが結局は無関心へと向かってしまうことに対して、果たしてそれで良いのだろうかという疑問を、ここでは投げかけているのではないでしょうか。

2サビ

もしも
世界が泣いてるなら
僕も号泣しよう
遠い国のことと
他人事にはできない
誰かが泣いてるなら
まわりが助けるべきだ
同じ時代生きてる
僕はその中の一人なんだ

世界のどこかでつらく苦しい思いをしている誰かがいるなら、それを他人事として見過ごすことなどできやしないというわけです。

 

何かしら悲惨な出来事が自分の身に、あるいは自分の身近な人に降りかかってきたということであれば、確かにそれは心穏やかではいられないでしょう。
けれども同じ出来事が、まったくの見ず知らずの人に起きた場合には、まるで別の世界での出来事であるかの如く関心が薄くなってしまいますよね。
それこそ、文字通り他人事になってしまう。

 

とはいえ同じ出来事であれば、自分の身に起きたときに感じるその痛みや苦しみを、見ず知らずの他者でも同じように感じているはず。
想像力を働かせてみれば共感することはできるし、決して無関係なことではないと思えるのではありませんかね。

 

そんな苦しみを抱えた人がいるのなら、「まわりが助けるべきだ」というわけです。
この「まわり」というのは、身近な誰かという狭い領域のことではなくて、もっと広く社会全体のことを指しているのでしょう。
個人の共感だけでは苦しんでいる人々を救うことは難しいでしょうから、社会全体の意思として、お互いに助け合おうではないかと呼びかけている。

 

そしてその社会の中には当然「僕」も含まれる。
「僕はその中の一人なんだ」というフレーズが、苦しんでいる他者に対して無関心ではいられないという「僕」の責任感や使命感を強調している。

ラスサビ前台詞

「僕は無力だ。何もできない。
一緒に泣くことしかできない」
「悲しみに慣れるのは嫌だ。
だから、世界が泣いてるなら、僕も号泣しよう」

他者の苦しみや悲しみの前で、「僕」はあまりにも無力であるという自覚。
せいぜい共感して涙を流すことくらいしかできない。
なればこそ、悲しみに慣れてしまうことに(あらが)うために、「世界が泣いてるなら、僕も号泣しよう」というわけです。

 

ラスサビは1サビの繰り返しになっています。
無関心でいることを拒否し、悲しみを共有しようとする強い意志が示されています。

 

個人としては何もできず無力かもしれない。
だとしても、他者の苦しみに対して無関心ではいられない。
共感共苦して、共に涙を流す。
せめてそういう人でありたいということを、この曲は歌っているのではないでしょうか。

 

※引用:
秋元康 作詞, 川島有真 作曲, 野中“まさ”雄一 編曲
SKE48「世界が泣いてるなら」(2015年)