この曲は、AKB48・チームK「逆上がり」公演の構成曲で、ソロユニットの曲になります。
公演曲の中では比較的良く知られた曲で、AKB48が歌うロックバラードの代表曲と言っても良いでしょう。
これまでにもさまざまなメンバーがこの曲を歌ってきましたけれども、やはり秋元才加が、彼女のキャラクターや歌声を考えると、この曲に一番しっくりくるような気がします。

 

 

1番Aメロ

俺は一人で
激しい雨の中
ずぶ濡れ
打たれてたかった
汚れた身体(からだ)と
醜い心を
洗い流そうとしてたんだ

孤独の中で苦悩する主人公の姿が描かれていますね。
「激しい雨」というのは、この主人公が抱えている苦難や葛藤を表しているのでしょう。

 

心身の汚れを洗い流したいということですから、もしかしたら自分の意に染まぬこともしてきたということでしょうかね。
それが、生きていくためなのか、周囲との軋轢(あつれき)を避けるためなのか、はたまた同調圧力に屈してしまったからなのか……。
いずれにせよ、自分の心の内にある信念、もしくは正義とは相容れぬことに従わざるを得なかったことに対して、自嘲(じちょう)悔悟(かいご)と自責の念に駆られているのかもしれませんね。

1番Bメロ

 こんな時代に
 何を信じて
 生きていったらいいのだろう
 問いかけても
 答えは出ない

今の世の中、「多様性」という言葉はポジティブな意味合い、もしくはポジティブな方向性として捉えられているのではないかと思います。
けれども、多種多様な価値観がせめぎ合う社会となると、それはある意味混沌(こんとん)とした社会でもあるわけです。
そんな世の中にすんなりと溶け込んでいける人はそれで良いでしょう。
けれども、実は多くの人々が、そうした「多様性」なるものに困惑してしまっているというのも事実なのではないでしょうか。
多様性を否定するわけではないけれども、今まで信じてきた価値観が通用しなくなったり、頭ごなしに否定されたりしてしまったら、ではこれから何を信じて生きていけば良いのか、はなはだ戸惑ってしまいますよね。
確かに古い価値観の中には、現代の社会常識や倫理観、人権上の観点からも明らかにおかしいと思われるものも少なくはないわけです。
そういったものは、努めて自分の中にある価値観の転換を図っていく必要はあるでしょう。
けれども一方で、多くの人に正しいと今信じられている価値観も、数10年後には、とんでもない間違いだったなんてことになっているかもしれないわけで……。
そうなってくると、いったい何を信じて生きていくべきなのか、その答えを見つけることは、今の時代、容易なことではありませんよね。

 

ここでは、そうした複雑な世の中と対峙(たいじ)して困惑している主人公の、孤独と不安を表しているのでしょう。

1サビ

傷つくことを
恐れてはいない
どんなにきつい
道のりも
ちっぽけな ちっぽけな俺は
前のめりに
たった一匹の虫になる

そんな困難な時代を生きていく中で、不本意ながらも周囲と衝突したりなどもして、自身が傷つくことも度々あるでしょう。
けれども、傷つくことを恐れずに、あえて厳しい道を進んで行こうとする覚悟が、ここでは示されています。

 

「たった一匹の虫」というのは、取るに足りない存在ということを表しているのでしょう。
自分自身をそんなちっぽけな虫に(たと)えることで、どれほど小さな存在であったとしても、いかなる困難にも立ち向かっていくという強い意志を表しているわけです。
「前のめりに」というフレーズが、主人公のひたむきな姿勢を強調していますよね。

2番Aメロ

風に倒され
ぬかるんだ泥の中
がむしゃらに
這いつくばってた
きれいなものとは
汗とか涙が
洗い流してくれたもの

「風に倒され ぬかるんだ泥の中」というのは、生きていくうえで直面することになるさまざまな障害や困難を表しているのでしょう。
そうした困難な状況の中で、この主人公は、もがき苦しみながらも必死に生きていこうとしているわけです。

 

困難に立ち向かう中で、拭った汗や流した涙によって得られたものこそ、真に価値のあるものなのだということをここでは言っているのでしょう。

2番Bメロ

何が真実
何が偽り
頭の中で考えても
近道しちゃ
答えは出ない

頭の中で考えているだけよりも、実際に自分自身で体験してみることの方が、物事の本質や真実は、より掴みやすくなるというのは、それはその通りなのでしょう。
とはいえ、考えるということも大切なことですよね。
特に、自分の頭で考えるということは。

 

よろしくないのは、自分の頭で考えることをせずに、他人の言説を皮相的に捉えて安易に鵜呑みにしてしまう、もしくは盲信してしまうことではありませんかね。
その典型的な例が、SNSやテレビ視聴でしょう。
SNSでは、真偽不明、根拠不明な言説が、日々安直に拡散されている。
また、今どきテレビから流される情報が絶対に正しいものと無条件に信じているような人などいないかもしれませんけれども、少し前までは、まるで神のお告げかの如く盲信していた人たちが多くいたことも事実なのですよね。

 

何にせよ、自分で実地に体験したり、自分の頭でとことん考え抜いたりすることは、それ相当にエネルギーを要することではありますけれども、そうしたことを通じてこそ、本質や真実に近づいていけるのではありませんかね。

2サビ

死んでくことを
嘆いたりしない
どんなに長い
永遠も
不器用な 不器用な俺は
振り返らず
ただの ひたむきな虫になる

「死んでくことを 嘆いたりしない」というのは、この主人公の、あるいはもしかしたら秋元P自身の死生観を表しているのでしょうかね。

 

現代の日本においては、マスメディアのフロパガンダ(?)が功を奏しているのか、「死は忌まわしいものであり、恐ろしいものである」とか「ともかく何でもいいから生きていさえすれば良い」とかの妙な死生観がまかり通っていて、人々は自分の「死」を考えないようにしたり、無理やり遠ざけようとしたりしていますよね。
これらの物言いは、確かにもっともらしく聞こえはしますけれども、何やら違和感を覚えてしまう。

 

そもそも、この世に生まれ落ちたときから、死ぬことは確定しているわけです。
不確実なこの世の中において、自分が死ぬということだけは100%確実なことなのですよね。
そう、自分は死すべき存在なのです。
ですから、死に方を不安に思ったり恐れたりすることはあっても、「死」そのものは忌み嫌ったり恐れたりするものではないのですよね。
なんなら、「死」は生きることの究極の目的なのではありませんかね。
死ぬために今を生き抜くという意味において……。

 

この主人公は、死を恐れず、ただひたむきに前を向いて生きていこうとしているわけです。
そこには、自分の「死」への確信と、生き抜いていこうとする強い決意が示されているのではありませんかね。

 

「不器用な俺は 振り返らず ただの ひたむきな虫になる」というフレーズには、この主人公が、スマートに要領良く生きていける人ではなく、泥臭く純粋に生きていく(たち)の人であるということが表されているのでしょう。

落ちサビ

命の限り
無様でもいいさ
地べたで叫ぶ
魂よ
生きること 生きること 俺は
しがみつく

「生きること 生きること 俺は しがみつく」というフレーズの字面(じづら)だけを見ると、死を恐れて生きることに執着しているようにも受け取れますけれども、直前の2サビに「死んでくことを 嘆いたりしない」とありますように、この主人公は、死を恐れているわけではないのですよね。
では、何にしがみつこうとしているのかというと、自分が自分であるための生き様なのではありませんかね。
泥臭くても良いから命の限りひたむきに生き抜こうとする、その生き様。

 

「地べたで叫ぶ魂」という表現に、この主人公の、己の生き様で生き抜くという強い意志が示されているのではないでしょうか。

 

ラスサビは1サビの繰り返しになっています。
どれほど困難な道のりであったとしても、傷つくことを恐れずに、ただひたむきに生きていこうとする、この主人公の強い覚悟が示されています。

 

この曲は、複雑で困難な時代を生きる私たちに、どんなにちっぽけな存在であろうとも強く生きていこうとする、そんな勇気を与えてくれる曲なのではありませんかね。

 

※引用:
秋元康 作詞, 多胡邦夫 作曲, 野中“まさ”雄一 編曲
AKB48「虫のバラード」 (2009年)