この曲は、STU48の9thシングル「息をする心」のカップリング曲です。
またずいぶんと堅苦しいタイトルの曲ですけれども、いったいどんな「主義」の主張がなされているのやら……。
1番Aメロ
面倒な奴だなと言われて
大人たちに嫌われて来たよ
それがいけないと言うのかい?
常識のスケジュール通りに
猫も杓子もみんなが踊らされてる
じゃあ僕は一(いち)抜けよう
自分たちの言っていることに素直に従わない、何かと自分たちに盾突いてくる、そういう人たち、とりわけ目下の者たちのことを大人たちは「面倒な奴」と称しているのでしょう。
ここで言っている「大人たち」というのは、文字通りの大人のことでもあるのでしょうけれども、立場が上の者や、いわゆる偉い人たちのことを指していて、権威を象徴する存在として用いられているわけです。
この主人公は、そうした「権威」に反発しているということなのでしょう。
「常識のスケジュール通りに 猫も杓子もみんなが踊らされてる」というフレーズには、そうした権威に多くの人たちがいいように飼いならされている現状に対して、批判的な目を向けているということが表されていますよね。
「権威」によって敷かれたレールの上を、「権威」によって作られた都合の良いルールに従って、「権威」の意図した通りに進んでいく、そんな思考停止した大衆への批判。
そのうえで、「じゃあ僕は一(いち)抜けよう」というのですから、そうしたバカバカしくも画一的な流れから自分は離れることを決意しているわけです。
1番Bメロ
ここにいたって意味なんかないよ
振り返っても 何も存在しない
空白さ
虚無ですねぇ……。
現在の状況や環境には何の意味も価値も見出せないという心情を、この主人公は吐露している。
さらには、これまでの自分を振り返ってみても、何もない、何も残っていないという空虚感を抱いてしまっている。
もはや、自分自身の存在理由すらも見出すことができない。
なにやらこの主人公、ニヒリズムの奈落に沈み込んでいきそうな気配を感じてしまいますよね。
1サビ
ああ 忘れられていいんだ 覚えてる価値もない
生きるってのは あやふやに自然淘汰されること
何が間違ってるとか 何が正しいなんて
どうだっていいことだろう 記憶に残るかだけ
そんな自分でいたい
「忘れられていいんだ 覚えてる価値もない」というのは、社会的な評価を得るだとか、誰かの記憶に残るだとか、もっと下世話なところでは、SNSなどの投稿で「いいね」をたくさんもらうだとか、いったいどれほどの意味があるというのか、そんなことはもうどうでも良いと言っているわけです。
そして、「生きるってのは あやふやに自然淘汰されること」とあります。
この「自然淘汰」というのは、環境に適した優良なものが生き残り、そうでない劣悪なものは死滅していくということを意味する言葉。
つまり、この歪んだ社会に要領よく適応していった者が勝ち組として生き残り、そうでない者は負け組として無視なり排除なりされて社会から抹消されていくという、そういうことを言っているのではありませんかね。
「あやふやに」というのは、そうした淘汰が曖昧で理不尽な基準によってなされているということを示唆しているのでしょう。
この社会を生きるというのはそういうことなのだと、この主人公は諦観してしまっているわけです。
「何が間違ってるとか 何が正しいなんて どうだっていいことだろう 記憶に残るかだけ」というのも、なにやら刹那的な印象を受けますよね。
ただ、この1サビの前半で「忘れられていいんだ」と言っておきながら、そのすぐ後に「記憶に残るかだけ」と言っているのは矛盾しているような……。
おそらく、ここで言っている「記憶に残るかだけ」というのは、世俗的な意味での名を残すというのとは意味合いが異なるのでしょう。
他者の記憶に残るのではなく、自分の記憶に残る、つまり自分自身で、これが自分の生きてきた証だと認識できるものさえあれば、人に知られようが知られまいが、それで良いと言うことなのではありませんかね。
そしてその生きてきた証は、善悪の彼岸にある。
世間一般的な価値観や常識、善悪や道徳などから超越したところにあるというわけです。
まるで、哲学者ニーチェのような物言いですよね。
2番Aメロ
あいつは変わっているからと
後ろ指差されて笑われて
そこにいないように扱われた
多数決で決められたルールは
少数派を無視することだったのか
なんかおかしくないかい?
変わり者は、とかく攻撃や排斥の対象になりがちなもの。
とりわけこの国のように、国自体が前近代的なひとつの大きな村のような閉鎖的な社会ではそういう傾向になってしまう。
皆と同じように振る舞わなければならない、皆が同じレベルでなければならない。
人と違うことをしてはならない、あるいは何かの才能があったり努力をしたりして周囲に対して突出してはならない。
なまじ突出して目立ってしまうと、妬み嫉みを買って足を引っ張られ、出る杭は打たれる。
そして暗黙裡に周囲に合わせることを強要する同調圧力も蔓延っている。
それは、国レベルだけでなく、地域レベルや業界村や会社村や学者村でもそう。
特定のコミュニティ内のその中でしか通用しない「村」の因習やしきたりが、普遍的な正義や倫理や人権よりも優先される。
なんとも、吐き気を催すほどに気色の悪い社会ですよね……。
「多数決で決められたルールは 少数派を無視することだったのか なんかおかしくないかい?」という問いかけは、民主主義が内包している欺瞞性を鋭く突いていると言えるのではありませんかね。
民主主義だからと言われると、それが正しいことのように思ってしまいがちですけれども、実態は常に多数派の意見がまかり通る、もっと言えば多数派の横暴がまかり通る、多数派にとって都合の良い仕組みなのですよね。
少数意見を尊重するとか言っても、それは建前であって、実際には少数派の意見や存在は無視され、なんなら抑圧の対象でしかない。
さらに、自分の信念や正義など何もなく、ともかく我が身を常に多数派の側に置いておきたいというだけの低劣な手合いも多数生み出してしまう。
民主主義というものは、正義でもなければ、最も優れた社会の仕組みというわけでもない。
せいぜい、他の仕組み、それこそ独裁や専制より多少はマシだという程度のものにすぎない。
この主人公は、そうした現状への疑問と批判を投げかけているわけです。
2番Bメロ
こんな世界は もううんざりだ
誰も知らない 行方不明の
天国へ
この主人公には、社会の現状に対する強い嫌悪感があるのでしょうね。
それが、こうして現実社会からの逃避願望となって表れているのでしょう。
「誰も知らない 行方不明の 天国へ」という言葉からは、なんだか危うい方向に進んでいるような気配を感じてしまいますよね。
けれども、おそらくここで言っているのは、この息苦しい現実から抜け出して、他者からの干渉を受けない自分だけの理想郷を求めたいということなのではありませんかね。
2サビ
ああ 知らなくていいんだ 教科書には書かれてない
都合の悪い真実は 記憶喪失になろう
何が正義かじゃなくて 何が悪(あく)かでもない
自分が信じていたものは 何か知りたかっただけ
世の中には都合の悪い真実というものも確かにあるわけです。
まあ、誰にとって都合が悪いのかというのはありますけれども……。
そうしたものは、学校教育や一般のメディアを通じての情報では決して語られることがない。
この主人公としては、そんな真実など知らなくてもいいのなら、見て見ぬふりをしておこうということなのでしょうかね。
何が正義で何が悪なのかなんてことはどうでも良くて、自分がこれまで信じてきたものが何だったのかという、それだけをこの主人公は知りたいというわけです。
もはや、何も信じられるものなどないといった心境でしょうか……。
落ちサビ
そんなことなんか なかったことに…
消しゴムより もっと綺麗に
これまで信じてきたものも信じられなくなってしまった。
そんなものを信じてきた過去の記憶も一切合切きれいに消し去ってしまいたい。
そういうことでしょうかね。
ラスサビは1サビの繰り返しになっています。
権威だとか社会の常識だとか、そんなものに何の意味があるのか。
世間や他者からどう評価されようが、そんなものに囚われることなく自分自身が納得のいく生きた証を残せればそれで良い。
その証が善であるか悪であるか、あるいは正しいか間違っているかなんてこともどうでも良い。
この主人公は、そんな虚無の淵に立って達観しているのかもしれません。
ところで、「自然淘汰主義」という曲名には、どういう意味が込められているのでしょうか?
この「自然淘汰」というのは、先にも記した通り、社会に要領よく適応していった者が生き残って、そうでない者が社会から抹消されていくということを指しているわけです。
それに対して歌詞の内容は、社会の在り方や常識に疑問を投げかけ、そこから距離を置こうというのですから、そうなると、この曲名は皮肉にも思えてきます。
淘汰されるのではなく、そんな社会はこちらから捨て去ってやるということなのですから……。
もしかしたら、「自然淘汰主義」という堅苦しい曲名には、こんな歪んだ社会の中で権威ぶっている、そんな者たちに対する辛辣な揶揄が込められているのではありませんかね。
秋元康 作詞, Toshikazu.K 作曲, Toshikazu.K 編曲
STU48「自然淘汰主義」 (2023年)
