海を見渡す草原でかつての民は闘った それは祈りの中にあり
祈りによりて血に染まる それでも退かぬ 魂生きて散るいのち
島原のお城と言えば、島原城もまた美しいのですが・・・島原・・キリシタンと言えば・・・
そう「原城」
旧南高来郡南有馬町(現南島原市南有馬町)島原半島の南下の位置にある「原城(はらじょう)」は、もともとは藤原経澄が鎌倉時代に築城した日野江城の支城として明応5年(1496年)に有馬貴純によって築かれた後、有馬晴信によって整備されました。
当時の最先端だった近畿地方の築城技術が用いられたのですが、原城の悲運は歴史で有名な「島原の乱」の舞台となったことでしょうか。
歴史に足を突っ込むと説明が長くなるので、「原城跡」としてご紹介いたします。
なんといっても、歴史的なお城としての部分と、もうひとつ・・・原城周辺にはとてもユニークなところがあります。ここから沖合300mに白洲(リソサムニューム礁といって、石灰藻の骸によってつくられた礁)というものが存在します。
本丸跡に設置された看板をもとに有明海を眺めてはみましたが、残念ながらその時は目にとめることができませんでした。「しらす~」
看板にも書いてありましたが、旧暦の三月と八月の最干潮時に浅瀬のようにして礁が現れるのですね。世界でも三カ所でしか見られないものだそうです。実は最近、広島大学の調査によって、この白州を構成するサンゴモのうち二種類の新種が発見されたそうです。
この海のなかにて知らぬ間にも新たな生命がうまれているのですね。感動(*´▽`*)
先ずは原城跡から海を眺めてみましょう。
有明海を逆時計回りして島原半島まできた海流が外海へと流れていく場所ですね。海の先は素麺で有名な有家町。その先にぽっこり見えるのが金峰山(熊本)。
原城が築かれたこの地盤には阿蘇山の大噴火によって流れてきた土石流の地層が残っています。
いわゆる「阿蘇4火砕流」という、約9万年前、阿蘇カルデラにて起きた我が国最大の巨大噴火による火砕流の跡というわけです。
確かに、有明海の干潟も「阿蘇山」の火砕流が土壌となって作られているようなものですから、九州の大地は阿蘇山の子どものようなもの。
きっと今、阿蘇山さんが大噴火でもしたら、我々九州人は残滅するかもしれない・・・。
考えてみれば、九州なんて火山が休火山状態を含めてあちらこちらにありますもんね。九重山一帯をはじめ、南は霧島から西南の島一帯、北西は雲仙岳や多良岳、福江島や小値賀島、宇久島等は火山によって出来た島でありました。
熊本の目印でもある金峰山も元は活火山なのですよ・・・しかも阿蘇山よりも先輩格。
現在全国に13あるランクAの火山のうち五カ所が九州となっているので、地球の熱量というものを常に身近に感じられるようにも思います。
もちろん、島原半島のぬし「雲仙岳」もランクAのうちに入っています。火山の恩恵ともいうべきか、有名な雲仙や小浜や島原だけではなく、この原城にも良質な温泉がありますよ。
原城を見たいのか?地質を見たいのか?あ~もう島原半島には見どころが多くって一日一町(合併して三つの市になってしまいましたが)でも足りないぐらい。
ポイントを絞れない・・・どちらも魅力的・・・ただでさえ水も食べ物も豊富で・・・ああこれまで持ちだしたら終わらないヨ・・・絶対に。
「ゴールデンウィークは島原半島を南下して、今年も原城跡まで行ってみた☆」
よしっ!・・って別に連休じゃなくても行くんだけれども・・・しかし・・
大好きな島原半島から見る空も是非とも紹介したい!!と思っていたら、昨年同様に雲が広がる曇り空・・・まあ・・・暑くなくてよかばってんが・・・。
主城でもある「日野江城」もそうですが、「原城」も地形をうまく利用して造られています。この一帯を治めた「有馬氏」はキリスト教を擁護したこともあり、かつてこの地は南蛮貿易で栄えました。
かわい子ちゃんの多い長崎のゆるキャラの中でも異彩を放つ、日本一背の高い歩行可能なゆるキャラ「ベイガ船長」も口之津港にはじめて来航した南蛮船の船長をモデルにして作られています。近況ではリニューアル(?)され人並みサイズになったベイガs・・ウグッ・・
三の丸から丘一帯を利用して海沿いに向かって本丸の跡があります。真ん中の木々の右手に本丸の曲輪が見えますね。天草四郎時貞を中心として籠城した場所。
ここでは日本でも最大級の「虎口(ここう)」が見つかっていて、玉砂利を敷き詰められた跡が発掘されたりと、有馬氏が築き上げた城郭が防衛に関して堅固さを意識していた事が伺えます。
正門跡から本丸門跡まで登って行くと、この地形がまさに天然の要塞だと実感いたします。
二の丸から本丸跡まで続く道から見る景色。海を眺め、反対に振り返るとそこには島原半島を堅固に守る山々が連なっていきます。
もっと先まで続いている、爽快な風を運んでいく緑豊かな風景が・・・美しい。
原城は、有馬氏→松倉氏となった時に松倉重政が「イヤ・・ここ(日野江城)不便じゃね?」と島原にお城を築いた為に元和2年(1616年)両城とも廃城となってしまいました。
お上の「一国一城!藩主は余分な城を持たんでいい」が、後に当時最先端技法で作られた原城跡に一揆軍がたてこもり、政府軍も大苦戦をするわけですから・・・世の運とは一筋縄ではいかないものがありましょうか。
重政の身分不相応な築城も一因となり、かなりの苛政(領民の限界を超えた重税など)に堪りかねた領民の命を懸けた対抗が、キリシタン弾圧に対する抵抗とも相まって、たくさんの犠牲者を出す戦へと繋がっていきました。
海を挟んだ天草も同じ不遇にあう領民たちが一揆をおこします。「島原・天草一揆(島原の乱)」の舞台となったわけですね。当時唐津藩の飛び地であった天草の「富岡城」を落城させることができなかった天草側の一揆軍は時貞と共に海を越え、原城の一揆軍と合流し、最後まで共に戦いました。
後に行われた発掘調査では、たくさんの人骨やロザリオ等が発見されています。
石垣が静かに語る戦火の跡。
石垣は破却され、引きずりだしてはまた壊していき・・・と徹底的に破壊されてしまいます。
それだけこの地(城)にまた人々が団結することを恐れていたのでしょうか。
見栄えでいえば、確かに島原城のほうが立派です(それでも明治の廃城令にて天守等が破却されています。今のは戦後に復元)が、この原城の跡に立つと、歴史の重みをひしひしと感じます。
石垣に積み入れられた礫のひとつひとつにまで目をやると、この地に生きてきた当時の人々の血肉のあとのようにも思われ、愛おしくまた畏敬の念をば感じるのです。
緑に囲まれた二の丸跡から駐車場へと進む道程はとてものどかで、鳥たちのさえずりと、樹々が風に揺れて葉をこすり合わせるような音が鳴り響きます。
高く伸びた樹を見上げ、また視線を戻すと目の前にひろがる有明海の海の色。
多くの尊き魂よ、どうぞ静かにお眠りください・・・と静かに一礼してこの地を後にしました。



