夢うつつ みゆる世界と みぬ世界
実は「おえんしゃまの話」は石牟礼氏の創作であります。
創作でありながらも、その土台にあるのは、不知火の渚で生まれ育った彼女が不思議に思った
当時の海浜の民たちの深層意識に手織りこまれているものたち、
つまりは人間以外の「あの衆(し)」たちとの付き合いについてでありました。
うつつにもちらりと見える狐や狸といったそういったもの達は、どうやら船をつたって天草島や島原等からも往来があった様子。島原から来たのは「垢ぬけたおしゃれ狂女の姿」で、大廻りの塘の薄の土手に出てくるという話もあって、こうして変化ものの話が物語られてきたそうです。
島の古老は、狐が仕事を手伝ってくれたり、地方によって顔も訛りも違うのだと、何とも真面目な顔で話しておられた。
さあて・・・これは御伽噺かそうかいな?
あとがきも、三度書かれ(初版から選書版、全集)さいごの最後に、拾遺の二編は創作なのだと白状されているのですが、あわせて添えられる話を読むと、それを単なる創作話とは受け取られない、まことの話があったのでした。
この話を読んで、ふと・・・むかし関わったおばあさんの事を想い出しました。
認知症だった彼女は、感情の起伏も穏やかで、一見そうだとは思えない程、しっかりと受け答えをされる方でした。
ところがね、時折穏やかな笑顔で、「今朝も早うから夜狐(やこ)の来たばい」と話される。
その夜狐は天井をゴトゴト走り回って、ご飯を炊いてくれるそうです。勿論、天上に這い入る隙間はありませんし、炊飯をするスペースもありません。それでも、昔から時々こうしてからかいにくるんだそうです。
わが一人野良仕事をしている時に、畦道のむこうからほっかむりをして「何しおんな?」と寄って来て、自分の尻に挟んでる手拭いをぴゃあっとうっ盗っていくそうな。悪さばかりじゃなく、偶には歌を歌うてくれるらしいので、彼女にとっては「悪うなかモン認定」をされているようでした。
稲穂の実る黄金の一面にぽつりと現れるこの世の衆ではないものが、開拓の小さな農地で必死に働くおっかあを、どういう気紛れで構うものか・・・。
嘘事(すらごと)のような・・・否・・自然と人が互いの境界まで向き合っている世界にはまことにオルのかも知れません。
百年そこそこにして、空や地下どころか宇宙にまでも、大きな箱を乗り回し、余るほどの食べ物を拵え、身を飾り、数多の言葉を知り、見識を更に広げ、世界の裏側の一々まで知れるようになった今の世では、昼も夜も電気が明々として、人の見えぬ世界でも、レーダーだ何だで暴いてしまう。
それでも、我々の知らぬ・・・立ち入られぬ世界があるのだと。
何かの偶然で時折開かれる、摩訶不思議なその世界は、死者も生者も界なく時空を凌駕して存在する。あるともないとも云えない不思議な世界に触れられる・・・かような人たちを、わたしは少しばかり羨ましく思うのです。
(了)