現代人の姿勢は本当に
悪くなっている。
背骨が曲がり首から頭が
落ちていたり
腰が反ってアゴがでていたり
様々だ。
姿勢が悪いと呼吸の質は
ガタ落ちする。
皆さんもよく耳にする
⚫︎胸式呼吸
⚫︎腹式呼吸
全く持って大雑把な
表現で呼吸に名前つけたなぁ
という感想。
医学的にはこの表現なの
だが
表現芸術からすると
呼吸は卓越した
技術と共に使われる。
音大時代に先生が
『お腹に息を入れて!』
と言われ
「お腹に息入ったら人間じゃ
ないけどっ」
と斜に構えていた。
お腹の筋肉を使う!
というキュー出しなら
まだしもと今は思う。
表現芸術においても
健康においても
呼吸の質を向上させるには
肋骨全体が
自在に動かせるように
しておく必要があるが
所詮、筋肉は骨があっての
筋肉だ。
例えば私自身の取り組み
は今、鎖骨、
肺の上部を使い呼吸し
骨盤は後傾させる。
それには下腹部のインナーマッスルは
かなり機能させる必要がある。
私は胸椎が硬く反りづらい。
そして、この呼吸を意識すると
しっかりと腹圧も入り
そこに股関節の外線を
いれたら
それは、身長が2センチくらい
高くなったほどスッキリと立てる。
もちろん、ずっとこの姿勢と
いうわけでもない。
これは呼吸のひとつの
バリエーションだ。
表現芸術には呼吸のバリエーションが
必須なのだ。
それは姿勢が関わるのだ!
私が私自身の課題とする呼吸の
テクニックを手に入れるために
必要な筋肉を使うと
喉の深い部分のスペースを
保ちやすい印象だ。
ハイトーン発声に必要なテクニック
だと感じる。
高音を出すにも
その音色の質は
数えきれないのだから。
無数の音色が存在する。
歌うことや話す時には
骨と筋肉に多大な影響があるし
そして、質の良い呼吸は
全身に影響するのは
いうまでもない。
第12肋骨に付着する筋肉など
背中の下部にある部分だが
この辺りを
しっかりと身体の軸として
意識し姿勢を保ち呼吸する
実験をして欲しい。
鎖骨が左右に
須く伸びて行く感覚もプラスして。
さて、姿勢が整い
呼吸のバリエーションが
増えると
まずはネガティブな思考には
なりようがなくなる。
なぜか。
意識が身体に向くからだ。
ネガティブな思考は
自分が好きで創っている。
思考ではなく
身体の声を聴ける
卓越さは
Graceが生まれる。
人にも自分にも
真摯にいられるだろう。
本日もありがとうございました。
桜が散りはじめると
新たなスタートが始まったと
私は感じてしまう。
時の波と上手に付き合えているのかと
ふと思ったり。
今日はテクニカルや表現の話しではなく
あ、いや
もしかしたら表現の話しかもしれない。
私が最初にヨーロッパに行ったのは
大学を卒業して一年くらい経った頃。
贅沢にも大学院浪人をさせてもらい
親には悪いが、勉強もせずに
ある種腐っていた時期で
ただ歌うことには必死であった時期。
なんとなく腐っている私を見兼ねて
ヨーロッパに出してくれた
親には感謝しかない。
そして、そこで見た現実は
歴然とした音楽への
根本的美意識の差であった。
オーストリアでも
イタリアでも
フランスでも
頭を叩き破られながらも
レッスンを受けたものだ。
一年ほどフラフラして
私は24歳で既に音楽専門学校で
講師の職についた。
よくこんな若造があんな大きな
当初、音楽の専門学校の講師に
抜擢されたもんだ。
そして、私のキャリアの
基盤を早々に与えられたことに
感謝しかない。
30代は毎年、冬休みに
当時、友人が留学してたparisに
レッスンを受けに行ったものだ。
ステージで歌う経験も積み重ねて
ある種、輝いていると
勘違いしていた時期かもしれない。
40歳くらいだったろうか。
ミラノに行った。
なんとスカラ座の
前から5列目の席のチケットを
手に入れた。
演目は『サロメ』
オスカーワイルドの戯曲に
R.シュトラウスの作曲。
衝撃的な傑作を
世界の殿堂スカラで観れる!
演奏家に敬意を表するには
最高のドレスアップをしなくてはと
ミラノの街を走り回り、ドレスを調達した。
胸は高鳴った。
今までもパリのオペラ座や
ウィーンの学友協会でも
素晴らしい演奏を肌で感じる
機会はたくさんあった。
そして、自分が表現者として
また教える人間としキャリアを積み
観る目も、聴く耳も肥えたはずだ。
更に吸収できるはず!!
そう思ってスカラ座の
前から5列目でワクワクしていた。
始まってすぐ私は打ちのめされた。
『歌は、こういう人達が
歌うべきものなのだ。』と。
豊かさを超えた声。
何かを超越した全身から
ほとばしる輝き。
聖書にあるモーゼの十戒の
海が割れるような奇跡のような
エネルギー。
演目の凄さもあいまって
私の細胞はあまりの素晴らしさに
感動を通り越して、絶望した。
私など歌ってはいけない人間なのでは
ないかと感じた。
暫く立ち直れなかった。
日本に戻っても朦朧としていたのを
未だによく思い出す。
音楽をやめようと思ったくらいだった。
そして、私は今。
表現することを辞めてはいない。
私はあの時、確かに
『絶望』したのだ。
そして『絶望』するエネルギーが
あったのだと感じている。
『絶望』するエネルギーを
力に変えたのだと思う。
今は、そう感じている。
あれから20年くらい経った
今、私が言えるのは
「私は私という色」なんだと
深くわかったからだ。
それ以外の色も尊敬し感謝し
私という色も絵の具やクレヨンの中の
オレンジとか赤とか名前はついて
いないけれど
私自身が既に
「私というカラー」
という
至極、シンプルで大切な
真実を受容したことで
私は成長することが出来た気がする。
誰とも、何とも闘わない。
自分自身の内奥にある
未知な機能とただひたすらに
向き合ってきたからだ。
とても才能や表現することに
真剣な愛がある人ほど
芸術を辞めてしまう人がいるのを
長年見てきた。
真面目さ故だろう。
ちゃらんぽらんが良いなどとは
私は決して言わないけれど
深刻さからは
何も生まれない。
真剣に仕事をすることだ。
その『ひたむきさ』
こそが芸術であり、愛であり
『あなたの真実の色』
なのだ。
悩んで腐って落ちていくのなんて
とてももったいない。コスパも悪い。
色々な負のことも糧に
ひとつのことを掘り下げることだ。
それが一番、楽な道だと気づくこと。
4月は新たな環境に身を置く方も多いだろう。
ワクワクやら緊張された方に
このメッセージと共にいて
頂けたらという思いで
書いてみた。
今日も読んでくださり
ありがとうございます。
最近は本当に緊急度の高い
仕事が多い。
歌のステージ、ミュージカルの
オーディション、台本の
分析やその作品の本質的な
意図を汲み上げる。
表現者達の様々な課題や葛藤
は様々だ。
様々なフェーズで活躍する
方々で、そのスキルの質も
様々ではある。
そして、その多くの
根本的な原因のベースと
なっているのは
自己の性格や性質が
どんな風に形成されてきたかも
その表現者の感覚感性に
大きく影響している。
舞台やステージの上は
日常では表現出来ないことが
出来る場だ。
例えば『怒り』の感情に
しても自分の中にある
『怒り』という感情の
トリガーや感情感覚自体が
今まで自分が体験したことに
付随しているからだ。
怒りを抑えるタイプの私などは
『怒り』を怒りとして感じずに
『憤りを含む悲しみ』に
変えてしまう性質がある。
ある時、自分のこういう性格構造に
気づき顕在化したことで
『怒り』を怒りの感情として
感じられるようになった。
日常で、それをむげに
ばら撒きちらしたり、否定性を
使うことはしたくないが
こういう風に表現のベクトルというのは
その表現者が感情を
どんな風に感じているかという質が
エネルギーとなり
流れる方向性すら決めてしまうのだ。
⚫︎川の流れや水質や方向
⚫︎風の流れや天候や影響
そんな大自然も場所や季節により
変化する。
表現とは大いなるものだ。
音楽や演劇という芸術は
大いなるものが原点である
と考える。
だからこそ、人間という生き物が
『己を知ること』
からのみ得るスキルこそ
本質的なスキルアップの原点になる。
そしてその感情は私達自身の
身体の中にあり
身体にも影響を及ぼす。
また更に身体に取り組むスキルも
必要だ。
尽きることのない探求の旅は
『生きる』意味を明確にし
表現者をスキル以上の価値ある
存在へと誘なう。
まさにmindfulnessである。
舞台も映画も音楽も
創る人間の愛に満ちている。