"見た目の良さは、私が私を愛する為に、私に必要なのか?"
子どもの頃から、密かに抱え続けている容姿に対するコンプレックス。
気にしていないふりをしつつ、本当はずっと気になっている。
今朝も、
"ちょっと食べ過ぎちゃったなぁ。体重増えちゃうかなぁ?"
と、思ったばかり。
私の中にある、"太ってはダメだ!" という禁止令が自動的に発動して、そのように思うのだ。
気付いたら、"私は美人ではない" という認識があった。
はっきり覚えていないくらい昔、親戚の叔父さんか誰かに、
"せっちゃんは、美人じゃないけど愛嬌がある"
と言うようなことを言われた気がする。
自分でも、丸顔に、低い団子っ鼻の組み合わせがが、子どもの頃から好きではなかった。
体型についても、小学生の頃、お正月の親戚の集まりで、
"すごい立派な足だねぇ。桜島大根よりすごいね!"
と言われた時のことが、記憶に焼き付いて、消えない。
子どもの頃からずっと、痩せてはいなかったけれど、太ってもいない、健康的な体型だった。
だから、今思えば、気にする必要なんて全く無い、たわいない一言だった。
言った本人に悪気は無かったのかもしれないし、絶対に覚えていないだろう。
でも、ナイフのように突き刺さったコトバがたくさんあるのだ。
そんな突き刺さって抜けない呪いのような言葉の一つ。
『ブスがジタバタしても、みっともない』
可愛くありたいと思う努力すら、否定され、封じられる、やるせなさ。
怒ればよかったと思うし、受け容れなければいいと思う。
でも、容姿に自信がないから、言われたことを否定できなかった。
『自分をよく見せようとするなんて、みっともない。
本当は、"ステキだと思われたい" なんて思っている事が、バレてはいけない。
自分には、関係ないことなんだ。
気にしていないふりをしなくては!』
いつの間にか、染み付いて、私の行動に大きく影響を与えるようになってしまっていた。
そして、母の一言。
『お化粧って、皮膚の上にもう一枚皮を被るようで、苦しくて嫌なのよね。』
"お化粧って、苦しくて、嫌なのかぁ…。"
田舎で敷地が無駄に広くて、草取りや、掃除等、いつも、一日中忙しそうにしていた母。
自分のことに構っている余裕も無く、作業着のような服で、化粧っ気も無かった。
食べるのが大好きだったから、太り気味の体型で、スタイルがいいとも言えなかった。
そんな母が授業参観に来てくれても、
"よそのお母さんみたいに、きれいにしてきてくれればいいのに…。"
と、恥ずかしく思っていた。
今思えば、母には、食べることくらいしか、日常の楽しみが無かったのかもしれない。
お化粧も、草取りなどの汗まみれの作業では、不快でしかなかっただろう。
キレイな奥様として、何もしないで笑っていられる、そんな境遇に、母も憧れたりしたのかなぁ…。
"私は美人にはなれないけど、体型を良くすることは努力すれば出来る。
だから、太ってはいけない!"
"お化粧しなくても、素肌がキレイで若々しく、素の自分のままでいられるようにすればいい。"
"外見ではなく、中身が大事なんだ!"
容姿に自信の無い私が、自分にかけた呪縛。
"キレイでありたい。"
どうしてそう思うのか?
どうして、そうじゃ無いとだめだと思うのか?
"美しい"って何だろう?
"女性は、若くて美しい方が、価値がある"
そのように刷り込まれたものを、私の中に感じる。
"そんなことは無い"
と思うと同時に、
"キレイだと思われたい。"
"若く見られた方が嬉しい。"
と思う自分がいるのも事実。
自分というものに対する、認識や評価の問題なのだろうか?
私が自分に対して、"いいね♪"、"○" と思う時って、どんな時だろう?
・"何かに気付けて、スゴイ!" と思った時
・美しいものを見たり、楽しいことがあって、 "嬉しい!" と感じた時
・嫌なことも、ありのまま、そうなのだと受け止められた時
・何かを "やろう!" と思ったり、それを行動に移したり、出来たとき
自分の感覚や、感性、思考の有り様や、行動についてが多いんだなぁ。
自分で自分を褒めて、嬉しくなって、子どものような無邪気な笑顔になれる瞬間。
そんな時、"私は私でOK♪"と感じて、喜んでいる。
私は、私自身が、快適で、喜べる状態でありたいんだなぁ。
この中に、見た目の良さは入っていなかった。
自信がないから、避けているのだろうか?
例えば、鏡の中で、にっこり笑う元気な自分はどうだろう?
→いいね♪ "○"
オシャレして、楽しい気分でルンルンしちゃう私はどう?
→もちろん、いいね♪ "○"
でも、よそ行きの窮屈なお洋服で、締め付けられて苦しいのも、足が痛くなるのも嫌だなぁ。
汚れたくないと感じるから、ワンコとも遊びたくなくなっちゃうのも悲しいなぁ。
スリムで、身体が軽くて、好きなお洋服が似合うのは?
→もちろん、いいね♪ "○"
でも、食べたいものも我慢して、イライラしたり、栄養不足で血行不良になって身体が冷えたり、体調を崩したり、エネルギー不足で力が出ないのは、嫌だ。
そう言えば、思ったのだった!
"有名ブランドの店頭ポスターのモデルさん、どこかで見たと思ったら、アフリカで飢餓に苦しむ子ども達と同じだ!" と。
端正な顔立ちで、きれいな人だと思ったけれど、儚げで、憂いを帯びた瞳は悲しそうに見えて、骨が浮くほど痩せた身体からは、力強い生命力を感じられなかった。
私が素敵だと感じるのは、そこにある、"明るく力強く、優しく満ち足りたエネルギーの現れ" に対してなんだ!
私が感じる美しさは、目で見て感じるだけじゃなく、心がそれを感じとっていたんだ。
もしも、目が見えなくなったとしても、音という響きの素晴らしさ、匂いの芳しさ、肌触りの心地よさ、味わいの素晴らしさ、人の強さや情熱や優しさ、そんなものに触れた時、きっと私は、美しいと感じるだろう。
ありのままの自分を、美しいと感じた時、きっと私は幸せに思う。
でも、それは、行動の美しさ、感性の美しさ、想いの美しさといった、生命の現れに対してであり、年をとっても、どんなしわくちゃの顔になっていても、美しいと感じられるはずだ。
"私なんかが、美しくありたいと思うなんて、みっともない"
自分にかけた呪縛から、もう自由になろう!
私は、私が心地よく、満たされて、自分で自分を素敵だと思える在り方を目指そう!
生き方が外見にまで溢れ出るような、そんな美しさを目指そう!
ありのままの自分を好きだと思える。
それはとっても幸せなことだ。
好きだと思える自分に必要なものは、人間が一人一人違うように、人それぞれ違っていい。
同じ美しさも必要ない!
私には、私にしかない素晴らしさがある。
自分を卑下することも、恥ずかしいと思って隠す必要もない。
誰かと比べられるようなものでもないから、勝った、負けたと思う必要もない。
ありのままの自分を、私自身が大切に思い、慈しみ、伸ばしていこう。
"私はとっても素敵なんだ♪"
そう思えた幸せに感謝。
明日も素敵な笑顔でありますように❤️