容姿に対するコンプレックス | せつこのココロ 〜ありのままの自分を受け容れ、私が私の最強の味方になる♪〜

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『ありのままの自分を受け容れて輝きたい✨』

どんな自分も、認め、受け容れ、私自身が私の最強の味方になる!

そんな自分に向き合う日々で得た元気をお届けします♪

"見た目の良さは、私が私を愛する為に、私に必要なのか?"



子どもの頃から、密かに抱え続けている容姿に対するコンプレックス。


気にしていないふりをしつつ、本当はずっと気になっている。



今朝も、

"ちょっと食べ過ぎちゃったなぁ。体重増えちゃうかなぁ?"

と、思ったばかり。


私の中にある、"太ってはダメだ!" という禁止令が自動的に発動して、そのように思うのだ。




気付いたら、"私は美人ではない" という認識があった。


はっきり覚えていないくらい昔、親戚の叔父さんか誰かに、

"せっちゃんは、美人じゃないけど愛嬌がある"

と言うようなことを言われた気がする。


自分でも、丸顔に、低い団子っ鼻の組み合わせがが、子どもの頃から好きではなかった。



体型についても、小学生の頃、お正月の親戚の集まりで、

"すごい立派な足だねぇ。桜島大根よりすごいね!"

と言われた時のことが、記憶に焼き付いて、消えない。


子どもの頃からずっと、痩せてはいなかったけれど、太ってもいない、健康的な体型だった。

だから、今思えば、気にする必要なんて全く無い、たわいない一言だった。


言った本人に悪気は無かったのかもしれないし、絶対に覚えていないだろう。


でも、ナイフのように突き刺さったコトバがたくさんあるのだ。



そんな突き刺さって抜けない呪いのような言葉の一つ。

『ブスがジタバタしても、みっともない』


可愛くありたいと思う努力すら、否定され、封じられる、やるせなさ。


怒ればよかったと思うし、受け容れなければいいと思う。


でも、容姿に自信がないから、言われたことを否定できなかった。


『自分をよく見せようとするなんて、みっともない。

本当は、"ステキだと思われたい" なんて思っている事が、バレてはいけない。

自分には、関係ないことなんだ。

気にしていないふりをしなくては!』

いつの間にか、染み付いて、私の行動に大きく影響を与えるようになってしまっていた。



そして、母の一言。

『お化粧って、皮膚の上にもう一枚皮を被るようで、苦しくて嫌なのよね。』


"お化粧って、苦しくて、嫌なのかぁ…。"



田舎で敷地が無駄に広くて、草取りや、掃除等、いつも、一日中忙しそうにしていた母。


自分のことに構っている余裕も無く、作業着のような服で、化粧っ気も無かった。


食べるのが大好きだったから、太り気味の体型で、スタイルがいいとも言えなかった。


そんな母が授業参観に来てくれても、

"よそのお母さんみたいに、きれいにしてきてくれればいいのに…。"

と、恥ずかしく思っていた。



今思えば、母には、食べることくらいしか、日常の楽しみが無かったのかもしれない。


お化粧も、草取りなどの汗まみれの作業では、不快でしかなかっただろう。


キレイな奥様として、何もしないで笑っていられる、そんな境遇に、母も憧れたりしたのかなぁ…。




"私は美人にはなれないけど、体型を良くすることは努力すれば出来る。

だから、太ってはいけない!"


"お化粧しなくても、素肌がキレイで若々しく、素の自分のままでいられるようにすればいい。"


"外見ではなく、中身が大事なんだ!"



容姿に自信の無い私が、自分にかけた呪縛。




"キレイでありたい。"

どうしてそう思うのか?

どうして、そうじゃ無いとだめだと思うのか?


"美しい"って何だろう?




"女性は、若くて美しい方が、価値がある"

そのように刷り込まれたものを、私の中に感じる。


"そんなことは無い" 

と思うと同時に、


"キレイだと思われたい。"

"若く見られた方が嬉しい。"

と思う自分がいるのも事実。



自分というものに対する、認識や評価の問題なのだろうか?



私が自分に対して、"いいね♪"、"○" と思う時って、どんな時だろう?


・"何かに気付けて、スゴイ!" と思った時

・美しいものを見たり、楽しいことがあって、 "嬉しい!" と感じた時

・嫌なことも、ありのまま、そうなのだと受け止められた時

・何かを "やろう!" と思ったり、それを行動に移したり、出来たとき


自分の感覚や、感性、思考の有り様や、行動についてが多いんだなぁ。



自分で自分を褒めて、嬉しくなって、子どものような無邪気な笑顔になれる瞬間。


そんな時、"私は私でOK♪"と感じて、喜んでいる。


私は、私自身が、快適で、喜べる状態でありたいんだなぁ。



この中に、見た目の良さは入っていなかった。

自信がないから、避けているのだろうか?


例えば、鏡の中で、にっこり笑う元気な自分はどうだろう?

→いいね♪ "○"


オシャレして、楽しい気分でルンルンしちゃう私はどう?

→もちろん、いいね♪ "○"

でも、よそ行きの窮屈なお洋服で、締め付けられて苦しいのも、足が痛くなるのも嫌だなぁ。

汚れたくないと感じるから、ワンコとも遊びたくなくなっちゃうのも悲しいなぁ。


スリムで、身体が軽くて、好きなお洋服が似合うのは?

→もちろん、いいね♪ "○"

でも、食べたいものも我慢して、イライラしたり、栄養不足で血行不良になって身体が冷えたり、体調を崩したり、エネルギー不足で力が出ないのは、嫌だ。



そう言えば、思ったのだった!


"有名ブランドの店頭ポスターのモデルさん、どこかで見たと思ったら、アフリカで飢餓に苦しむ子ども達と同じだ!" と。


端正な顔立ちで、きれいな人だと思ったけれど、儚げで、憂いを帯びた瞳は悲しそうに見えて、骨が浮くほど痩せた身体からは、力強い生命力を感じられなかった。



私が素敵だと感じるのは、そこにある、"明るく力強く、優しく満ち足りたエネルギーの現れ" に対してなんだ!


私が感じる美しさは、目で見て感じるだけじゃなく、心がそれを感じとっていたんだ。


もしも、目が見えなくなったとしても、音という響きの素晴らしさ、匂いの芳しさ、肌触りの心地よさ、味わいの素晴らしさ、人の強さや情熱や優しさ、そんなものに触れた時、きっと私は、美しいと感じるだろう。



ありのままの自分を、美しいと感じた時、きっと私は幸せに思う。


でも、それは、行動の美しさ、感性の美しさ、想いの美しさといった、生命の現れに対してであり、年をとっても、どんなしわくちゃの顔になっていても、美しいと感じられるはずだ。



"私なんかが、美しくありたいと思うなんて、みっともない"


自分にかけた呪縛から、もう自由になろう!



私は、私が心地よく、満たされて、自分で自分を素敵だと思える在り方を目指そう!


生き方が外見にまで溢れ出るような、そんな美しさを目指そう!



ありのままの自分を好きだと思える。

それはとっても幸せなことだ。



好きだと思える自分に必要なものは、人間が一人一人違うように、人それぞれ違っていい。


同じ美しさも必要ない!



私には、私にしかない素晴らしさがある。


自分を卑下することも、恥ずかしいと思って隠す必要もない。

誰かと比べられるようなものでもないから、勝った、負けたと思う必要もない。


ありのままの自分を、私自身が大切に思い、慈しみ、伸ばしていこう。



"私はとっても素敵なんだ♪"

そう思えた幸せに感謝。





明日も素敵な笑顔でありますように❤️