【Coments 124】ツクダ君(2年6組)の京都を思い出した1冊 | 西山夕焼け通信 1970~1979

西山夕焼け通信 1970~1979

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1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
これからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

124

👨
佃T

千葉県千葉市在住


2年6組橋本学級

(1年だけの転校生)
 


8月3日土曜日

乙中関東2024夏の会に

参加しました。
かとちん(7)、

誘ってくれてありがとう。

8月3日は母の誕生日でした。
瀬津くん(9)の原稿依頼とは

形式が異なりますが、

「61晩夏」として今書きたいこと、

今しか書けないことをしたためました。

「京都の想い出」です。

2024年8月16日金曜日、

61歳の誕生日を京都で迎えました。
何故京都かと言うと、

万城目学の直木賞受賞作

『8月の御所グラウンド』を読んで、

今年は五山送り火を

観るかという気になりました。

『8月の御所グラウンド』は

お盆に大学生の草野球チームが

沢村栄治らの英霊と

一緒にプレーしていたという

邂逅のファンタジーです。
また、私の母は伏見桃山の出、

神戸御影に嫁いだものの、

私は京都の病院で産まれました。

1963年8月16日金曜日

私の出産の報を聞いた祖父は

家中の雨戸を開け火打石を鳴らして
清め「お釈迦様だ」と喜んだそうです。
母の実家は、

京阪電車観月橋駅から

坂を上ったとろにある

古い日本家屋でした。

斜面に建てられていたため、

北側からは2階建て、

玄関は1階にあるように

見えましたが、

実際玄関は2階にありました。

南側から見ると

1階全体は物置になっていて、

五右衛門風呂、庭がありました。

叔母がお茶とお花の先生をしており、

3階がお稽古場でした。

3階からは観月橋、宇治川が見渡せ、

踏切の音がカンカンと鳴り響いていました。

近くには御香宮神社、

大手筋商店街があり、

夏のお祭りでは

山吹鉄砲を買ってもらったものです。

お正月は親戚、知人が集まり、

三が日はおせちを

食べ続けてにぎやかでした。
 

の後、1977年

中2の1年間だけ向日町に住みました。

乙訓中2年6組、

濱田イングリッシュセミナー、

ボーイスカウト向日1団に属して

友人がたくさん出来ました。

向日1団は向日神社に本部があり、

比叡山、西山、大原野、

ポンポン山を歩きまわって

適当なところにテントを張って

キャンプをしました。

比叡山では夜中にテントを

誰かに揺らされたり、

川に冷やしてあった飲み物を盗られたり、

今考えると危なっかしいことをしています。
 

ょうど10年前の

2014年8月15日金曜日から

16日土曜日、

母の喜寿のお祝いに

2人で京都旅行をしました。

観月橋近くの月橋院でお墓参りをして、

御香宮、大手筋、竜馬通り、寺田屋を散策、

夜は鴨川添いの晴鴨楼に泊まりました。

濃紫の頭巾、ちゃんちゃんこを着て

うれしそうに恥ずかしそうに

食事をする母の姿が目に浮かびます。

16日土曜日は建仁寺、大中院、二条城、

北野天満宮、金閣寺を巡りました。

前日からの台風で鴨川には

濁流が流れていましたが、

五山送り火までには雨は上がりました。
 

2024年8月16日金曜日

京都御苑近くのホテル屋上から

五山送り火を観ました。

61年前母は病院から

送り火を観たのかどうか。

母は2019年12月24日火曜日

82歳で亡くなりました。

京都を想うことは、

母を想うことだと気付きました。

母の人生、

24歳で結婚して2児をもうけ

46歳で子供は家を出て64歳で夫を亡くした、

を辿ってみることがあります。

母は幸せだったのか、

母に聞けば、

ただ微笑むような気がします。

送り火を観ながら、

今年はやはり母が呼んだのだと思いました。

村栄治は戦前京都商業学校で

春夏3度甲子園出場、

日米野球ではベーブ・ルースや

ルー・ゲーリックを

三振にとるなど活躍しましたが、

3度の招集を経て、

80年前の1944年12月2日
台湾海峡にて27歳で戦死しています。

3度目の入営は伏見にあった歩兵第9連隊です。

沢村栄治と母の接点は伏見にありました。