【乙訓ジュブナイル】乙中1年間、ツクダ君の想い出 | 西山夕焼け通信 1970~1979

西山夕焼け通信 1970~1979

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1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
これからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

文:佃T

2年6組橋本学級

※2年次に転入、3年次に転出

参加します。

 

向日町の思い出
昭和52年(1977年)中二の

1年間だけを

向日町で過ごした。

白状すると、

最初から1年後には神戸に

帰ることがわかっていた。

生まれは神戸の御影、

父の転勤のため小四から

名古屋市の隣り、

西枇杷島町に住んでいた。

家は代々お酒関係の仕事をしており、

祖父の一声で
父は京都本社に戻されてしまった。

割を食ったのは弟と私で、

私は中学校を西枇杷島、

向日町、御影と

毎年変わることになった。
向日町の社宅の裏に、

同じクラス(橋本先生)の

TK君が住んでいた。

そのうち濵田ES

(イングリッシュセミナー)にも

誘ってくれた。

乙中にも濵田ESにも

一緒に通ったし、

自転車は二人乗りだった。

ブレーキをかけずに

帰れるかと無茶なことをしていた。
「佃君、これ食べていきよし」、

TK君のお母さんの

ふくよかな笑顔を

今でもよく思い出す。
弟が学校で竹ひごの矢が目に刺さり、

失明しかけたことがあった。

入院中の弟に付き添って

母がいない間

しばらく父と二人で凌いでいて

ベランダで洗濯物を干していると、

TK君が見ていて、

「涙出るうえー」と泣いていた。
東京の大学に入り

最初に下宿に遊びに来たのは

TK君だった。

東京に着くなり、当時流行り
出した「カフェバー行こ、カフェバー」

と言っていた。
 

離婚すると打ち明けた時、

いちばん喜んだのもTK君だった。

「それは良かった。今日はええ日や」

と上機嫌だった。
一昨年も昨年も矢沢永吉の

コンサートに一緒に行った。

自分ではチケットを取らずに、
今年もよろしく」という。
向日町の1年間で、

人生の親友に

恵まれたことに感謝したい。