【1月7日】西本直樹さんを偲んで | 西山夕焼け通信 61春

西山夕焼け通信 61春

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京都西山の麓に育った子どもたち、
1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
このブログはこれからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

西本直樹さん

シモ:向陽小卒

1年10組茨木学級

3年4組林学級

卓球部

2022年7月6日

病気によりご逝去。

 

突然の訃報だった。

コロナ禍の通夜は、

あの賑やかな男を送るには、

あまりにも寂しかった。

やるせなさばかりが残る。

生前のシモは、

仕事に精を出すぶん

愉快、痛快な遊びびと。

見送った友たちは、

誰もが思っていた。

シモ、お前、飲み過ぎやろう!

 

 

あらゆる遊びに

長けた男でした

小林馨;3年6組

最後にシモに会ったのは

コロナ禍が始まる前の

2019年の年末でした。

向陽高校の恩師を招いての忘年会。

グルメなシモがもようすだけあって

材料はシモ厳選の豪華な牡蠣。

さらにシモ夫人は、

料理人の娘だけあって

その味、そのもてなしも申し分なし。

牡蠣三昧の宴でした。

高校までの友達ばかりか

私の息子やクニユキ(長三中)

の子どもたちも

牡蠣にハマリ、一家で楽しみにし、

西本家の恒例行事となっていたんです。

だから私のなかの最後のシモは

あのいつもの陽気にはしゃぐ姿です。

 

小学校のころは

草野球仲間でしたから、

いつから友達なのかは

はっきりしていません。

想い出すのは

高3のころからの付き合い。

すべての遊びのシーンにシモがいて

彼が盛り上げ役でした。

ゲームにハマって

当時、向陽高校生のサボり場

一文橋近くの喫茶&パブ

マルコポーロにあった

ゲーム機でドンキーコングに

夢中になってました。

大学時代にうちの妹と一緒に遊びに行って

知り合ったのがのちに結婚する

ユキミちゃん。

このカップル、かなり陽気で

いつも笑わせてくれました。

シモが大学を卒業してからは

よく働き、よく遊び、とことん飲む

に拍車がかかり全速力でした。

夏は海釣り、素潜りで海遊び。

夏のジャズフェス、花火大会、バーベキュー……。

ほかに競馬もよく行ってました。

まるで、わしゃ止まると死ぬんじゃー、

と言わんばかり!

 

振り返ると、その分働いていたし、

それだけ仕事での

ストレスを強かった

のかも知れません。

私にとってシモは

遊びのリーダーでした。

 

シモは寂しがり屋でもあった。

コロナの三密回避、ステイホームは

シモにとって窮屈すぎたのではないか。

あのときに“つながり”が

断たれなければ……。

やるせなさばかりが残ります。

ただシモが望んでいた一つのこと。

成長を夢見ていた2人の息子。

葬儀で会った時、

立派な社会人となっていました。

よかったなぁ、シモ!

 

小学2年から、

シモとジャレ合っていた

せつひろし;乙中3年9組

向陽小学校2年のときの

教室は木造2階建てで6教室。

建ち並ぶ校舎の一番南、

運動場に一番出やすい校舎だった。

2年5組岡本学級。

一番古い友達、西本直樹。

7歳の子どもだ。

会話なんて成立していたかどうか?

ひたすらドッジボールで遊んでいた。

シモはギッチョで力強いボールを

投げていた。

日が暮れそうな冬の放課後。

人数が少なくなるとまた投げになる。

笑っていたのか、

無言だったのかなんて覚えてない。

ひたすらボールを投げ合う。

シモの上植野の家に

遊びに行っていたから

放課後も遊んでいたのだろう。

ただただジャレ合っていた。

 

大人になってからは……。

言い合いになっても

意見が食い違っても、

互いに腹を立てても、

やっぱりジャレ合っていたような

気がする。

その相手がいないのは

とてもとても寂しい。

 

 

音楽にのめりこんだ、

高校時代。

いつもシモがいた。

高井健司:3年9組

シモとの濃密な2年間。

向陽高校2年から3年。

学校帰りに立ち寄るシモの家。

洋楽だらけのLP棚。

ローリング・ストーンズ、

ストラングラーズ、UB40

クラッシュ、セックス・ピストルズ。

The Who、デヴィット・ボウイ

洋楽が溢れていた。

最先端のロックもあり。

シモが傍らでギターを弾く、

何気なく口ずさむ、

いつのまにか歌うようになっていた。

鞍馬口の大谷大学北にあった

ライブハウス異魔人。

卒業式を終えた直後のライブを

することになった。

大学受験を終えた2月から

スタジオ通いが始まった。

ボーカル:高井健司

ギター:西本直樹

ギター:長濱正則

ベース:水谷潤一

ドラム:せつひろし

キーボード:余田弘美

日々、スタジオかシモの家にいた。

「オリジナル曲をやろう!」

とシモが言い出した。

完成した軽いレゲエ調の曲。

 

「平和の鐘」

作詞・作曲:西本直樹

 

いったい俺たちの
幼い頃の夢は
どこへいってしまったのか
いつかこの手で
つかもうとした
平和の鐘は
今は青い闇に包まれたまま


今でもこの曲を口ずさんでいる。

 

 

 

オヤジの背中、
シモは追っていたが、
どうだったんだろう?

小野和夫:3年4組
小学生のころケンカも強かった。
頭もよかった。
大人になると
酒もかるく一升飲めるほど。
趣味の釣りになると、
朗らかに夢中になって
話し続ける。
土木業の現場をまとめ
引っ張っていくには、
これほどの男はいない。
男気一番、西本直樹。

幼稚園のころからだ。
隣の隣が
そのころのシモの家。
たがいの家へは出入り自由。
幼馴染の想い出はいくらでもある。
ただ私にとって強烈だったのは
シモの父だった。
強烈、豪快、豪傑……、
開発最盛期の向日市にやってきて
土木建築で一目を置かれていた人。
ひとかどの昭和の男でした。

シモは西本家の長男。
失敗したが中学受験もしていた。
高卒時の大学を選ぶときは、
迷うことなく土木科を選んだ。
でも、シモが大学を卒業して
大手土木会社のサラリーマンとして
働き始めたころに聞いた、
「オヤジとそりが合わない」
という一言。
シモが背負った跡継ぎの重さ。
30代で父の仕事を継ぐ。
昭和から平成へ。
地域の一建設会社の仕事も
大きく変わっていた。
うまくはいかなかった。

シモは再び一会社員として
やり直した。
愚痴も言わず、
今まで通り愉快な男であり続けた。
2人の息子とヨメを守り続けた。
最後はやっぱり酒だった。
止められないほど飲む。
誰も止められない。
翌日、ケロッとして二日酔いを
自嘲しているものだと思っていた。

友人がいなくなりました。
残念です。