【2013アーカイブス】めんたんダイジェスト1 | 西山夕焼け通信 61春

西山夕焼け通信 61春

SINCE 2023 11・1 配信休止中 

京都西山の麓に育った子どもたち、
1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
このブログはこれからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

2013年同窓会の

準備ブログ掲載された

記事の再掲載。

当時は幹事だっためんたんには

1週間担当していただいた。

 

めんたんの乙中よもやま話②

私(U羽めぐみ12組)の49年の人生のなかで

乙中の3年間がいちばん

密度が濃かったと思います。

あんなに一生懸命生きた3年間は

後にも先にもあのときだけでした。

そんななかでもとくに覚えているのは

バレー部

G野先生ですね。

怖かったですよね、

いつも私たちは太ももに先生の手形、

もみじマーク

つけていましたっけ……。

平日は外で練習していたのですが、

土曜日だけ4時から

体育館で練習できました。

でも体育館は1面で男子と一緒。

 

よく片面ずつアタック練習なんかで、

マミちゃん

(2組)が

ボールを上げていると

男子は順番にアタックしながら、

ジーッとマミちゃんを見てたでしょ?

その後、ボール上げが私に代わると、

サーッと潮が引くように

みんな練習してましたっけ。

その後、ネットの高さを

男子に合わせて試合!

エースのI西君(2組)の

アタックを受けるのは、

なかなか怖かったですよ。

 

試合中でも私たちがつまらないミスをすると、

よくG野先生がコートに入って来て

叱ってましたね。

「もう試合中なんだから、

誰かとめてよ!

って思ってたけど、

誰も止められず、

ただただ怒られてました。

こんなふうに書いているとなんか

嫌な思い出のようですが、

それはそれなりに楽しかったんですよ。

……ってことにしときます。

ちゃんちゃん♪

 

中2だったか中3だったか……?

なにかの用事で土田先生の

家へ行くことになりました。

学校でまだ用事があった土田先生は、

私たちに先に行って

待っててということで、

私とB美ちゃん(Mなおみ5組)は

ふたりで、

当時商店街の一角にあった

土田先生の部屋に入りました。

一通り見渡して、

「ふ~っ なんかおなかがへったね

あっ、あんなところに源氏パイがある!」

そうです、

当時まだ13,14歳の子どもたちは

空腹に負けて、

そこにあった源氏パイ

勝手にむしゃむしゃ食べてしまったのでした。

土田先生、ごめんなさい!

あそこにあった源氏パイ、

今度の同窓会に買って持って行きます。

 

卒業式の日、そして今

 

1979年3月15日、

私たちはどんな気持ちで

卒業式にのぞんでいたのでしょうね。

ただただよく泣いていたことだけ

覚えています。

 

体育館で一人ひとりの先生から

名前を呼んでもらうのですが、

いつもわりと

力を抜いている土田先生が、

そのときだけはマイクを使わず、

大きな声で名前を呼んでくれ、

みんな一生懸命大きな声で答えていました。

 

クラスでは、一人ずつ

土田先生にお花を渡すのですが、

私は

「私が一番に行って、

 先生を泣かしてくる!!」

と宣言したにもかかわらず、

自分が

鼻水までたらして泣いていたので、

もうそれどころではありません。

 

そして今……。

私は西京区の樫原に住んでいます。

同じ小学校区内にK田広樹くん(2組)

チャオ(9組)がいます。

しかも3人の子どもは同級生!

最後のリクエストは甲斐バンドの『安奈』です。

私の娘の名前は「あんな」です。

 

上羽M

めんたん:三向小卒

1年7組山田学級

2年9組宍戸学級

3年12組土田学級

バレー部

 

 

特別付録 おまけ↓

伝説の動画、めんたんスペシャル!

当時、力をこめ時間をかけて5分で製作(笑)