西山夕焼け通信 1970~1979

西山夕焼け通信 1970~1979

Magazine Style Blog
Since2023・11・1
新規記事配信休止中


1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
これからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

悲しく残念な情報が入りました。

小島隆久さまが逝去されました。

 

ことり、三向小卒、向陽高校卒

同志社大学卒 同志社大学勤務

3年12組土田学級

 

逝去された日時や原因は不明ですが、

お通夜・告別式の情報が

複数の同級生から入りましたので

掲載いたします。

 

会場;祝園シティーホール

;京都府相楽郡精華町

 

 

お通夜

10月10日(木) 19:00~20:00

 

告別式

10月11日(金) 11:30~12:30

 

 

追記

ことりとは年賀状のやりとりが続いていて

いつも仲のよい夫婦の写真が賀状にありました。

記憶のなかのことりはいつも笑っています。

今年3月30日の同窓会は

大学の要職にあるため、

早くから仕事のため欠席との連絡がありました。

なにか虫の知らせだったのか

先週土曜日にことりを思い出し

便りを投函したばかりでした。

 

 

2024年10月8日 

せつひろし(3年9組)

 

わっし(9組・せつ)です。

乙中1979卒同級生のみなさま、

この記事をもって

「61晩夏」の配信を終了いたします。

データによると、

1日の平均訪問者数は75人でした。

総数300人に対して

25%~30%の方が

週に一度は読んでいる

と類推されます。

ちなみに

1日の訪問者の最高は

107人、

1日のアクセス数は559でした。

読んでいただいて、

ありがとうございます。

そして読まないまでも、

気にかけていただいたみなさま、

ありがとうございます。

そしてそして

寄稿してくださったみなさま、

取材に対応していただいたみなさま、

とてもたいへんベリー、

ありがとうございました。

 

記事は引き続き読めますので

お知り合いの同級生に

「この記事がよかったよ、面白かったよ」

なーーんてすすめていただければ

うれしー限りです。

 

西山夕焼け通信の記事が

小さな同窓会のきっかけになったり、

久々の音信につながれば

いいなぁーーと思います。

それぞれの距離感で

お付き合いください。

西山夕焼け通信をよろしくです。

 

 

今度はいつになるのか???

告知は適宜いたします。

そしてまた4週間も配信期間で

来年の春にでもスタート

できればと思っております。

そのときはさらにパワーアップしなきゃ。

休信期間もなにかイベント等があれば

記事をあげます。

てなことで、しばしバイバイ^^b

 

 

 

 

134

👩

間R

兵庫県西宮市在住

向陽小卒/リコ

1年7組山田学級

2年9組宍戸学級

3年3組澤田学級

卓球部

 

乙中のみなさん、

この夏、ボーッとしてましたかぁ?

ワタしゃ、ふだんは中学校の

購買部のオバチャンをしていますが、

夏休みだから仕事がない><。

ずーーーーーーーーっと

家でボーーッとしてましたぁ!

夏に外に出るなんて、

危険年齢域に入った。

時間はあるが、金はない!

暑さは耐えられないが、

エアコン冷気が苦手。

家族に諭され、

生命を維持する

最低限のエアコン利用。

何が言いたいのか!

ワタしゃ、ふだんより増して

暑さで脳みそがフニフニしていたのです。

そんなボーーーーーーーッとした

夏に考えた

還暦引きこもり女子の

スローガン2!

※「女子」にツッコムべからず!

その1

息子たちよ、

いつまでも可愛がってやるぞ、

覚悟なさい!

すでに社会人となった

ふたりの息子たちよ、

たとえ家から出て、それぞれ独立して

イッチョマエに暮らしていても、

たとえ、子離れしない母と

言われようが、

そんなの関係ねぇ!

かわいいものはかわいい。

家に帰れば、そりゃ力の限りの料理。

ラインも毎日のように入れてやろう。

そして、いつかキミたちに

ヨメができた日には、

世界最強の姑として君臨し、

ヨメに母の愛を見せつけてやろう!

 

 

次男は大学時代の

サークルでコスプレしたりしなかったりで

踊っておりまして、

社会人となった今も

踊っております。

最近の動画を見せてもらったら、

やたらカッケーーー!

デビューしたらいいのになぁ~

なんて思っております。

失礼しました。

ただの親バカです。

……やっぱりワタしゃ

どーかしている。

でも

親バカだっていい

たくましい姑になってやる。

 

その2

ダンナよ、定年後に

とき放たれたのはいいが、

それだけは許しません!

わが家は一家での福岡暮らし時代に

家族そろって

福岡ソフトバンクホークスに

はまりましたばい。

そんな仲良し鷹一家が

西宮に移り、

長男が馬原投手の

ホークス→オリックスの

トレードを機にオリファンへ。

さらに次男はロッテファンへ。

あの仲良き鷹一家は美しき哉、

な日々は遠い昔の過去のこと……。

それが、それが……

ダンナの様子が最近オカシイ。

定年を迎えて、

鷹を追って東へ西へと

自由奔放にスタジアム

観戦しているのはいいが

なにか変!

鷹VS日ハム戦を見ていたときのことです。

異変に気付いたワタしゃ、

「ダンナさん、

いいかげん吐いちまいな。

アンタには可愛い息子ふたりに

夏はボーッとしたヨメまでいるじゃねぇかぁ。

こんなことで家族を悲しましちゃいけねぇなぁ」

と言い、「さぁビールでも飲みなぁ」と

グラスにビールを注いだとき、

万波(日ハム)がホームランを打ち

ダンナが

「よっしゃーーーー!!!」

…………。

我が家プロ野球的一家崩壊!

みなさま、

御清聴、ありがとうございました。

 

 

133

👨

阪本T 

栃木県宇都宮市にて

単身赴任中。
カッパ、ポコシャ

/大原野小卒

1年2組宍戸学級

2年12組臼井学級

3年8組雪嵐学級

バレー部

 

プレバトの夏井先生なら

発想の飛ばし方

がすごすぎる!」

と評するだろう、

ポコシャの

パリ五輪バレーからの

三段ロットのような

発想の文。


2024パリ五輪で

日本男子バレーボールが

久々に熱い脚光を浴びたのは五輪に先立つ
ネーションズリーグで準優勝、

世界ランク2位に入ったことで、

よそ半世紀前の全日本の

栄光復活に大きな期待が

寄せられたからだろう。


我々の世代でバレー部にいた者は

多かれ少なかれ

1972年ミュンヘン五輪の男子金メダル

に触発されて入部した連中が

私を含めて多くいたと思う。


ミュンヘン五輪の

全日本男子バレーの記憶は

セッター猫田、

エースアタッカー大古を軸に
森田、横田、南、キャプテンの中村と、

今も記憶の中で最強全日本

輝ける偶像として私の記憶の中に定着している。
 

今回の全日本はメダルには届かなかったにせよ、

半世紀ぶりに最も世界に近づき、

洗練された、

まさしくミュンヘン以来の

最強全日本と呼ぶにふさわしいチームだった。

象徴的な選手として、

キャプテンの石川選手以上に

私は西田有志選手の活躍に注目していた。


アタッカーとして世界と渡り合うには

あまりにも小さな188cmの身長にもかかわらず、

豊かな跳躍力、全体重をボールに乗せて

打ち込む力感溢れるフォーム

サウスポーから広角に打ち分ける視野の広さ、

スパイクが決まった時

雄叫びを上げる表情のコミカルさ、

サーブを打てば世界最高峰の

ビッグサーバーでもあり、

まさしく小さな大エースでした。
パリ五輪で最後の試合となった

イタリア戦に敗れ、

ネットを挟んでイタリア選手と握手している

西田選手がとても

小さく見えて思わず涙ぐんでしまった。
※発想の飛ばし方として

ここまではフツーだ。

ここからがポコシャの真髄!


私の中で、西田選手と半世紀昔に

活躍したキューバの

超人的バレーボール選手

:アーネスト・マルチネスを重ねていた。


身長は178cmと

西田より10cm低いにも

関わらず、

指高241cmから最高到達点363cm
と、とんでもない跳躍力を誇っていた。
マルチネスの時代の全日本は

新日鉄の田中と小田が2枚看板で

高いブロック力を誇っていたが、

マルチネスは小田のブロックの上から

強烈なスパイクを撃ち込

指股を引き裂くという
ゾっとするようなエピソードが残っている。
※ここからさらに飛ぶ(笑)

私たちの乙中バレー部時代にも

東宇治中学にマルチネスと呼ばれた

とんでもなく上手い選手がいた。

身長はウチらの中川ブル(4)と同じくらいで

アタッカーではないが、

オールラウンドに活躍する

まさにセンタープレイヤーだった。

マルチネスのニックネームも

中川ブルがつけたと記憶している。

本名は 森下 大造 君 といった。
森下マルチネスの率いる東宇治は山城大会では

常に乙中バレー部に立ちはだかる大きな壁で、
遂にその壁を超えることはできなかった。
高校時代もマルチネスの東宇治に敗れた。

※さらさらに飛びます、飛びます!(笑)
就職して今の会社に転職した当初、

宇治市の営業所で2学年下の

宇治出身の事務員の女の子がいた。

彼女の話では、

当時のバレー部の先輩方は

神様みたいな雲の上の存在で

勉強もスポーツも
抜群で生徒会もバレー部で

運営されていたそうだ。

今私が単身赴任している

栃木の現場にも8年下の

東宇治のバレー部OBがいて、

彼もマルチネスを知っていた。

「へえ~阪本さん、森下さんと

同期やったんスか、すごいなあ~」

・・・何が凄いのだろう?

半世紀を経た今もなお、

周囲にいた人々の記憶に強い印象を

残していることが凄いのでしょうね。

※ここから強引に着地点へ(爆笑)
オリンピックやワールドカップで

アジアのバレーボールチームが

点に立つことはもはやないだろうと

考えていたのは多分、

私だけではないと思う。
パリの全日本男子バレーボールチームは

その意識に風穴を開けたことは間違いない。
近い将来、西田選手がマルチネスを超えるとき、

全日本が世界の頂点に返り咲く姿を

世界中に見せてくれることを願っている。

 

 

「Dear」は故人となった方を

偲ぶ企画として始めます。

新たな原稿も募集しています。

 

まゆみからの年賀状

文 :みき(11組)

 

年末、

このブログで中川眞由美さん(11組)の

訃報を知りました。

事実は受け入れ難いのですが、

カルミ(11)の心あふれる文に泣かされ、

まゆみに想い馳せていました。

長年続いた年賀状のやりとり。

40代の年賀状でした。

「遅ればせながらママになれたよ」と

女の子の名前が書いてありました。

「よかったねぇ!まゆみ!」

友人の吉報に心が躍りました。

 

私自身は、結婚13年目

30代半ばに

やっとお母さんになれました。

親や周りの人からの

「子どもは?」の言葉に

神経過敏なころ、

なにかのきっかけで

まゆみとの音信が復活しました。

彼女が

反対されての結婚だったこと、

乙中で先生をしていたこと、

家で塾をしていること、

デッカイ猫を飼っていること、

そして彼女も子どもがいないこと

いろいろ聞いていました。

仕事はとっても充実して忙しい毎日を

送っていたそんな眞由美が

38歳にして子どもが欲しいと

思うようになり

その後旦那さんとお寺に入り、

子どもが授かるまで

いろいろな葛藤があったと思います。

忙しいお寺の事と子育て

大変だっただろうけど見えないゴールに向かって

走り続けた日々吹き飛ばして眞由美は、

きっといいお母さんだったと思います。

ゆみを知る人の多くが語るように、

想い出されるのは、

彼女の朗らかさと、

とびっきりの笑顔。

3年11組の昼休み。

まゆみ、カルミ、ナカちゃん……

ほかに何人かいた

お弁当を一緒に食べるグループ。

何を話していたんだろう?

なにかは思い出せないけど、

彼女の口調と話す時の笑顔は

今でも不思議なことに

はっきりと思い出されるんです。

想い出すとき、私の表情は柔らかくなります。

彼女がスキップするかのように

跳んで走っていた姿も

今は思い出すたびに愛おしく感じます。

まゆみからの年賀状、

今も大切にしまっています。

 

みき/三向小卒

1年6組新井学級

2年5組井手学級

3年11組小倉学級