瀬戸内 ジャクソン フェルナンド 『 100年のぼやき 』 -8ページ目

瀬戸内 ジャクソン フェルナンド 『 100年のぼやき 』

生きることも死ぬこともままならず、しみったれた暮らしの中で日々懊悩する憂いの放浪者。
卑屈なまでに自らを蔑む繰り言は、もはや美しくさえある。   

路傍に現れた水たまりの如く、万事狭く浅くやってきた習慣を今さら変えられようもなく、肝心のコンピュータ言語にしたところで一向に知識も広がらなければ理解も深まらないまま、かれこれ三ヶ月が経とうとしている。
さりとて、もはや己の頭の悪さを恨む気にもなれず、却ってこの後も変わらず皮相浅薄に生きてゆくのかと思うと、事の是非はともかく清々しさすら覚える。
つまるところ、馬鹿なら馬鹿と記した旗幟を立て、無心に汗を流していたのなら、あるいは今頃は賤民なりに何かしらの身分を得られたのかもしれないが、馬鹿ゆえにそのことをひたすら押し隠そうとし、馬鹿をより悪化させてしまっただけの話。

まさにミイラ取りがミイラになるとはこういうことか。

いや、最初から馬鹿なのだから火に油を注ぐが正解だな。笑止。