※昨年秋にイスラエルで開催された「エルサレム朝餐祈祷会」に夫婦でメッセージ参加しました。(YouTube)
≪せとけん政治塾 第3回≫
瀬戸健一郎(せとけん)は、昨年12月3日に英国エセックス大学から「政治理論における修士号(優等)」を授与されましたが、それに先駆けて、2020年11月号からキリスト教月刊誌「ハーザー」で、『せとけん政治塾』の連載がスタート。本ブログ記事は、その第3回にあたる2021年1月号の元原稿を掲載しました。
2021年の抱負
個人の可能性が100%開花する政治をめざして
西暦二〇二一年が明けました。引き続くコロナ禍との戦いの中ではありますが、今年も一方的な主のご恩寵の中で生かされる喜びを噛みしめながら、主が最善をなして下さることを期待しつつ、来るこの一年の歩みを進めて参りたいと思います。
信仰と政治がどのように両立していくのかというテーマで始まったこのシリーズも、第三回目を迎えます。新年号ということもあって、私たちクリスチャン政治家夫婦としての抱負を語って下さいというのが、今回のお題でした。そこで今更ではありますが、「紀元」ということばの意味から考えていきたいと思います。
「紀元」は英語で「A.D.」と表記されます。これは実は英語ではなく、ラテン語の「Anno Domini」(救世主の年)ということばの略語。一方、「紀元前」を表す「B.C.」は英語の「Before Christ」(救世主以前)ということばの略語です。いわゆる世界で共有されている「西暦」が主のご降誕を紀元としている事実を、それをあまり意識することのない日本人の未信者(未来、信じる者)の皆様に、このお正月を契機として、お証ししたいものです。
主の時は美しい
さて、私は一昨年一〇月から、英国エセックス大学で政治理論の学びを始めました。しかし、昨年三月末にコロナ禍のために緊急帰国して、その後の学びはリモートで完了しました。大学の授業がネット対応となり、図書館やラボまで閉鎖されてしまったので、英国に留まる理由が無くなっていました。しかし、「神のなさることはすべて、時にかなって美しい。」(伝三・11)という御言葉のように、大学での政治学の学びと帰国後に取り組んだ妻・山川百合子(衆議院議員)の国会活動が、私の中で有機的に折り重なる貴重な体験となりました。
主は私を英国がEUから離脱するタイミングで現地に送って下さり、人間と物資の移動の自由がヨーロッパ全体をいかに統一市場として機能させているかを実感させ、そして同時に、その移動の自由がどれ程のスピードで新型コロナウイルス感染症をヨーロッパ全土に拡散していったのかを学ばせて下さいました。一時帰国時に、私は同居している八七歳で糖尿病の既往症がある母に、もし私が英国でコロナに感染していたら、母が感染して重症化するかもしれないと心配しました。幸いにも帰国時に羽田空港の検疫所で軽い風邪の症状があることを告げると、PCR検査を受けることになり、結果は陰性。ひとまず安心して帰宅したのです。
実現した課題と幻に終わった改正案
帰国後二週間経って、妻の国会活動に本格的に合流したタイミングで、当時は法務委員会所属だった妻に、厚生労働委員会で質問するチャンスが訪れました。この質問を組む省庁レクと呼ばれる関係省庁の担当者との準備過程で、私たちは英国のコロナ禍の実情と対策、英国で学んでいるヨーロッパ各国、インドやアジア各国からの留学生の実態について彼らと情報を共有しながら、日本国政府として取り組むべき課題を詳らかにしていきました。
この中で実現したことは、一つ目に「帰国者全員のPCR検査の実施」、二つ目に「新宿歌舞伎町などの夜の繁華街における警察官によるパトロールの徹底」でした。前者は島国であるがゆえに日本が無防備になりがちな水際での感染抑止を実現するものであり、後者は法的な拘束力が無くても日本人は警察に対する信頼が厚いのだから、憲法に緊急事態条項を追加するまでもなく、警察官がパトロールを強化して、クラスター化の恐れがある若者などに声をかけるだけで、十分な感染抑止効果を発揮するはずだという信条に基づく議論でした。
※新型コロナウイルス等特別措置法改正案(山川私案)
その後、いわゆる感染第二派は収束したものの、昨年秋から感染第三派が拡大しています。これは国民経済を底支えする必要性から、GoToキャンペーンなどが実施された負の影響だと指摘する声がありますが、大事なのは医療崩壊を招かないように必要な対策を講じることだと、私たちは昨年春頃から警鐘を鳴らし続けてきました。実際に妻が国会議員に当選してから初めての議員立法案をこの件で草稿しました。しかし当時、大きな野党協議が行われていたために、法案提出には至りませんでした。幻の「新型コロナウイルス対策特別措置法改正案(山川私案)」が求めていたのは、一つ目に「病床確保は地方自治体の責任」とし、二つ目は「人工呼吸器などの医療器材とマスク、手袋、フェイスシールド、ガウンなどの医療資材の確保と流通は国の責任」として明記し、国と地方の役割を明確にすることでした。
医療器材と資材の確保
イタリアやスペインで感染爆発が蔓延し、八〇歳以上のお年寄りに装着された人工呼吸器を取り外して若者に着け替えるといった、究極の選択がヨーロッパで報道されました。英国でも感染者を収容する病床不足に加え、中等症の感染者に装着する人工呼吸器の不足に備えて、普段、高級自動車や航空機エンジンを製造しているロールスロイス社までもが、人工呼吸器の生産に着手する実態が英国で報道されました。体育館や見本市会場などに特設病床を設置する切迫感は、日本にはありませんでした。
しかし、今回の第三派の拡大で、人工呼吸器を必要とする中等症者を収容する地域の自治体病院や中核病院では、人工呼吸器やそれを扱う医療従事者が不足すれば、さらに重症者を収容する指定病院に影響が出て医療崩壊の原因になり得ます。そのため、必要な医療器材と資材の確保と供給を国の責任として明確化するべきだ、と主張したのが「山川私案」だったわけです。
その後、山川百合子は法務委員会から厚生労働委員会に所属替えとなり、さらに外務委員会も担当することになって現在に至ります。
その後の厚生労働委員会での議論の中で、人工呼吸器の確保は進み、各地の自治体病院が特別交付金で人工呼吸器を新規購入できる道が開かれました。また、現在までの議論の中で、中等症程度までの感染者を十分に地域の自治体病院や中核病院で受け入れることができれば、ECMO(体外式膜型人工肺)の装着等が必要な重症重傷感染者のための病床確保が維持できる見通しが立っています。
個人重視の政治を目指す
さて、一方の外務委員会での論点は、実は、河野太郎前防衛大臣の「イージスアショア整備計画の撤回」に遡ります。以前に妻が外務委員会に所属していた時に、当時、外務大臣であった河野氏とこの議論を詰めていました。議論の中で私たちが指摘していたのは、北朝鮮から発射される弾道ミサイルを想定してイージスアショアを整備するのであれば、北朝鮮からハワイに向けられたミサイルが秋田県上空を通過し、グアムに向けられたミサイルが山口県上空を通過することになるので、そこに配備される迎撃ミサイルは必ずしも日本の防衛が目的ではなく、迎撃された弾道ミサイルの破片は秋田県と山口県に降り注ぐことになるといった議論でした。
実は、これは日米関係の問題です。日本に米国が一〇〇か所以上もの米軍基地や米軍施設を駐留させていますが、これらはすべて日米地位協定という日米安全保障条約に基づくもので、日本国の主権をどこまで主張するかという議論でもあるわけです。昨年行われた米国大統領選挙で現職のトランプ氏が敗北して、バイデン氏が当選しました。トランプ氏は「アメリカ・ファースト」を標榜して、米国一国主義を主張していたのに対して、バイデン氏は「国際協調」と「同盟重視」を標榜する政権になることが予測されています。つまり、日米関係にも変化が予想されているわけです。今年は、衆議院外務委員として、日米関係を注視しながら、新たな日米同盟のあり方を模索していくことになりそうです。
ここで重要なのは、国際社会における国家の主権と連帯、国家における個人の基本的人権と自由を重視する「プログレッシブ」な政治を目指す動きです。実はこの度、政治理論における修士号(優等)- Master of Arts (with merit) in Political Theoryを授与された私の修士論文『左派ポピュリズムのすすめ―日本に左派言説の窓は?』を仕上げる過程で、日本では国会で、「プログレッシブ議員連盟」が設立されました。妻・山川百合子がその事務局を担当しています。これも神様の奇しきご計画だったと夫妻で感謝しています。このことについて、最後に少しだけご報告したいと思います。
米ソ冷戦時代が終焉して、共産主義や社会主義、その原点とも言われるマルクス主義が過去のイデオロギーとなったという評価が世界中に蔓延しました。冷戦時代に世界を二分していた「右派」と「左派」の言説は、右派の激しい「レッド・パージ」(赤狩り)が、左派のイデオロギーや言説を封じ込めるかたちで、「左派」=「赤」=「悪」であるかのような印象を日米両国民に与えたのではないか? これが私の修士論文の仮説でした。
だれも取り残されない政治
実は「プログレッシブ」(Progressive)ということばは、「社会主義」とか「リベラル」といった左派の言説を表すことばが「タブー視」され、「死語」になりつつある現実政治の中で、再び健全な左派ポピュリズムを復活、復権させようとする大きな戦略の中で生み出されたことばです。これまで世界の保守(右派)政権は、米国のトランプ大統領は「アメリカを再び偉大に!」、英国のジョンソン首相は「ブレグジットを成し遂げよう!」、日本の安倍前首相は「美しい日本!」と言ったスローガンを掲げて国威高揚を目指しましたが、実はこれらはそれぞれの言説には具体的な政策や特定のビジョンは含まれていません。(これを政治学の批判的言説分析では「空虚なシニフィアン」(Empty Signifier)と呼びます。)そしてこれらのことばは「国家」を志向していますから、右派ポピュリズムの言説だということになります。
一方、左派の視点は「個人」(Individual)にあります。「個人」の基本的人権や自由を志向するのが左派ポピュリズムの言説だと言えるのです。確かにこの考え方は時々、聖書が教える世界観や伝統的な教会の秩序や文化と衝突する場面を生じさせます。極論を言えば、「ヒューマニズムは非聖書的だ」などという主張も出てくるかもしれません。例えば、妊娠中絶の問題や同性婚の問題もその一例です。これらの政治問題を神学論争化することは可能なのですが、ここでの論点は、右派は「国家」や社会構造の温存を主張し、左派は「個人」の自由や可能性の実現を主張するという程度の区別に止めておくことに致しましょう。
つまり、今年二〇二一年は、世界的な国家主義的な論調からコロナ禍を経て、プログレッシブな論調へと政治が大きくシフトする予感がするということです。かつてノルウェーの社会学者ヨハン・ガルトゥングは、人間個人の可能性が一〇〇%開花するのを阻害する社会の力を「構造的暴力」と呼びましたが、個人が国家や社会構造によって抑圧されるのでなく、個人の可能性が開花するような国家や社会にしていきましょうという一年になるのではないかと私たち夫婦は考えています。この世からあらゆる暴力を排除しなければなりません。
私たちはこれまでも、「国家のために国民があるのではなく、国民のために国家があるのだ。」と主張してきました。神様がお創りになった私たち一人ひとりの人間が、創造主なる神様を知り、それぞれ与えられた召しに生きる時、神の国の平和と平安が世界を覆うことになると確信しているのです。だれも犠牲にしない、だれも取り残さない政治を実現していくことが、私たち夫妻の今年二〇二一年の信念の抱負です。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ四三・4)
(完)
瀬戸健一郎(せとけん)
Kenichiro Seto (Ken Seto)
ポリティカルセオリスト
Political Theorist