※当日の朝、「聖書朗読頼んだよね!」と突然、主幹者アルバートに言われて選んだ聖書箇所は、伝道者の書第3章9-14節の御言葉でした。
※動画はこのキャプションをクリックしても観られます。(下に動画ウインドウあり)


世界70か国から、700名近くの様々な教団教派のクリスチャンが一堂に会する大舞台で「聖書読んでよ!」と急に頼まれたら、皆さんならどうしますか?エストニアの法務大臣、アメリカ合衆国の上院議員、英国をはじめ西欧諸国、アジア、アフリカ、インド、オセアニア各地域各国の国会議員や知事たち・・・世界中から、クリスチャンである証しを立てつつ歩む政治家がこんなにも居られるのかと他人事のように彼らの聖書朗読やメッセージを聞いていた私に突然、主幹者で司会者のアルバートが「君にも聖書朗読頼んだよね?」と聞かれてビックリしました。「いつ?」、「今晩のファウンダーズ晩餐会で。」、「ハイ、喜んで!とても光栄な機会です。」

さて、そうとなるとやっぱり「平和をつくるものは幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)がいいなとイメージを膨らませて、ドキドキ、ワクワク。

ところが、朝餐祈祷会が終わるころ事務局の女性が確認に来られたので、「何か聖書箇所を選ぶ基準はあるんですか?」との私の問いかけに、「いえ、お好きな箇所をお選び下さい。」、「ただし、旧約聖書からお願いします。そしてエルサレムの平和や祝福に関する部分であれば結構です。」とおっしゃる。

確かに、マタイによる福音書第5章9節はエルサレムの平和のみならず世界平和や個々人の間に生ずる軋轢や緊張をしずめる意味も含まれているので問題はない。しかし、新約聖書の一説である。困った・・・

先日、クリスチャン雑誌ハーザーに寄稿した「バビロン捕囚70年目の解放」というテーマであれば、エレミア書だ。特に私が好きなのは、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミア29:11)で、これは昨日、今日とまだどなたも朗読していない箇所だ。しかも、エルサレム朝餐祈祷会は米国の大使館がエルサレムに移転したことを神様の約束と恩寵だと祝っているのだから、朗読箇所としても相応しい。よし、これにしよう・・・かっ、

何だか平安がない。

私はお祝いムード一色のこのエルサレム朝餐祈祷会の中に居ても、まだ違和感を覚えていました。クリスチャンである各国代表が旧約聖書を朗読し、ユダヤ教のラビが祝福のメッセージを述べる。確かにクリスチャンとユダヤ教徒の間には完全な和解と一致がつくられた感はあるが、アラブ人をはじめとるイスラム教徒たちがまだ敵視された感もある。

確かに、イスラム教の指導者も共通の聖都であるエルサレムの平和を祈る祝福のメッセージを述べに来たのは感動的な出来事であり、会場全体が拍手に包まれ、私も会場のほとんど全員がスタンディング・オベーションで神様への感謝と喜びを共有したばかりではあったのだが・・・、

エルサレムがふたたびユダヤ人たちの国イスラエルの首都となるというのは、3,000年ぶりだという感謝が続く。でも、これまで紆余曲折があった。「神のなさることはすべて、時にかなって美しい。」(伝道者3:11)まさにこの御言葉だと気づいた。この御言葉は、私たち夫婦の居間にも、寝室にも、掲げられている御言葉。私の座右の聖句だった。

どんな困難があろうともすべてが神様の御手の中にある。サタンがどんなマイナス的なことをしても、神様はそれに乗ずる祝福を与えられる。だからマイナスが大きいほど、祝福も大きい。-2は-2を乗じると+4となり、-10は-10を乗じると+100となる。

すべてのマイナスはサタンからのものだ。神様はそれを許されても、それをそれに応じた祝福に変えて下さるのだ!

傍目にそれがどのように写ろうとも、神様は信じるもの一人一人と個人的に決済して下さるのだ!

さて、ピースメーカーとして、マタイ5章9節を高らかに読み上げたいと言う衝動が聖書朗読を依頼された瞬間に私の内からあふれ出てきたが、それは私の思い。しかし神様は、「おまえを日本から生まれさせたのは私だぞ。ピースメーカーズ・フォーラムを集めたのも私だ。通り善き管として、私の命じることをやりなさい。」と私の心の深いところに語られたのをはっきりと感じました。

「平和をつくるものは幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミア29:11)

この二つの御言葉はまだ成就していないのだ。これを成就するために相応しい御言葉。主が会衆の前に私を立たせて語られようとされている御言葉は何か。次の御言葉こそが、その祈りの答えであると確信することが出来ました。舞台袖に呼ばれる5分前のことでした。実は、それまでエレミアか伝道者か答えが出ずに悩んでいました。同じテーブルに居た日本CBMCの青木仁志理事長の名代で参加されていた娘さんの愛(めぐみ)さんに意見を求めると、即座に「伝道者の方が響きますね!」とクリアカットなお応えだったこともあり、「よし、これで行こう!」と決めました。まさに、登壇直前のことでした。

「神のなさることはすべて、時にかなって美しい。」(伝道者5:9)

この御言葉を朗読するのにあたり、これだけの祈りと葛藤がありました。さて、それを伝えるにはどこからどこまでを朗読するか。その応えは不思議なくらいスムースに与えられました。9節から14節。9節から14節。9節から14節だよ。

ハレルヤ!主よ、感謝します!

朗読したのは、次の箇所でした。青木愛(めぐみ)さんがご自分のiPhoneで撮って下さったビデオをそのままYouTubeにアップしましたが、英語字幕を付けましたので、ご覧になりながら、次の日本語の聖書箇所をご一緒に味わって頂けたら幸いです。



新改訳改訂第3版 サブ聖書ウインドウ No.1
伝道者の書(旧約聖書)


3:9 働く者は労苦して何の益を得よう。

3:10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。

3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

3:12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。

3:13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。

3:14 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。

これから帰国の途につきます

全能の主よ!私に今日もあなたの恩寵をお示し下さい!
Show me your favor today again, O' God almighty!

エルサレムにて

シャローム

瀬戸健一郎(せとけん)
Kenichiro Seto