「日本を取り戻す。」とは、自民党のスローガンであるが、これは「日本の栄光を取り戻す。」、「日本の繁栄を取り戻す。」という意味だと思う。しかし同時に、自民党が「政権を取り戻す。」といった政権奪還に対する並々ならぬ決意が込められたスローガンでもあるのだろう。



今回の転載記事を読んで思ったのは、政治家の微妙な言葉づかいが与える影響は大きいということだ。



どんなに苦しい選挙であっても、私は決して悲観的、絶望的な言葉は口がさけても発言したことはない。しかし、橋下氏は選挙戦中盤に、いとも簡単に「惨敗だ」などと発言している。これを聞いた有権者が、かつて福岡政行先生が言った「有権者の絶妙なバランス感覚」を作動させて、有権者が実際の投票行動に臨むのかが注目される。



第三極の分裂によって、橋下氏の言った「ふわっとした民意」は行き場を探して迷走していて、私の恩師・白鳥令教授がかつて言った「投票しない投票行動」を選択するのだとしたら、投票率は思いのほか伸び悩むことになるだろう。



「コンテクストは決定的。」("Context is decisive.")という言葉がある。「言葉はなる。」という意味だが、今回の転載記事で一番気になったのは、作家でもあり、言葉の達人でもある石原慎太郎氏の「ことば」(コンテクスト)である。



それは「役人の支配をぶっ壊そうとやってきた」という発言だ。確かに小泉純一郎氏も「自民党をぶっ壊す。」と発言していたことは記憶に新しい、しかし、ぶっ壊す対象は自らがトップに立つ自民党内に残る因習だった。「役人の支配」つまり「官僚中央集権」は、誤解を恐れずに言えば、私もチャレンジすべき大きな壁であると痛感している。しかしそれは、破壊の対象ではない。



石原慎太郎氏はこうも述べている。「暴走老人の石原です。」しかしこれも、自虐的すぎると私は感じる。



さだまさしの「男は大きな川になれ」という歌に、「苦しい時ほど、意地ををはれ。目をそらさずに、明日を見よ。」というのがある。



私が石原慎太郎氏ならば、「暴走老人とは、失礼だ。」と断じた上で、「政治家がしっかりとしたリーダーシップを発揮して、官僚国家の舵取りをしなければならない。その使命感から、国政をめざす。」と発言するだろうと思う。



言葉はパワフルである。



日本維新の会が掲げた維新八策は私も共感するところが大きい。最も大きいのが「統治機構を変える。」とした部分だ。



地方分権、地域主権といった言葉が政治改革のテーマとなって久しいが、国家公務員30万人の内8万人が霞が関で政策を決定し、地方勤務の22万人が、全国各地の約260万人の地方公務員を指導・監督しながら政策を実行させるといった「官僚中央集権」の現実の中で、税収の6割を国税として徴収して、地方交付税や国庫支出金というかたちで、国家公務員によって地方に配分される日本の財政構造に直面する時、石原都知事や橋下市長ならずとも、地方政治を担ってきた私たち、地方議員にとっても、国が大きく立ちはだかっていると感じさせられることは日常茶飯事なのである。



自民党政権も中曽根政権時代くらいまでは、政権が官僚中央集権をコントロールしていたが、その後の政権は官僚中央集権におんぶにだっこだったと私は感じてきた。



「政治主導」を掲げて政権交代を果たした民主党政権も、自民党、公明党と共同で消費税引き上げを決め、向こう3年間、赤字国債を発行して予算編成していくことを決定した。しかも、消費税を全額、社会保障費として使うという「消費税の福祉目的税化」を異口同音に主張し合っている今回の選挙はまさに、「社会保障のため」ならば、いつでも税率を上げることができるといった「打ち出の小づち」を、財務省に与える議論であることを国民はしっかりと見抜く必要がある。



「官僚中央集権から政治的リーダーシップを取り戻す!」



自民党もそうは言っていないのだから、石原慎太郎氏は小泉純一郎氏の「ぶっ壊す」ではなく、安部晋三氏の「取り戻す」をむしろ呑み込んで、こう主張すべきなのではないかと思う。



総選挙後半戦にも、国民のみなさまの目を政治に向けていただきたいと願う。



日本を変える。~だれもが幸せなまちをつくろう!全国に・・・


追伸 このブログ記事へのコメントは公職選挙法を考慮して「コメント拒否」設定にしてあります。ご意見・ご感想はメッセージとしてお寄せ下さい。ご理解、ご協力に感謝いたします。


瀬戸健一郎

Kenichiro Seto

草加市議会議員

Soka City Councilor