この世界は一体何を間違えているのか?問題が山積し続ける現状見てそう思う方も多いのではないかと思います。

 

 個人的には何度も書いているように学校教育が諸悪の根源であり、それを指導する国家の責任というのは揺るぎません。しかし、この事が中々世間には受け入れられない^^;

 

 現代人の殆どは国家と学校のお陰で生き行けると思っているからだと思います。それはもしかしたら人類誕生からそうであった位の強い信念となっていることでしょう。

 

 そこで、今回は事実を振り返りながら、その信念を覆す試みに挑戦してみようかと思いまして・・・

 

 これを知るには日本という国はとても都合が良いのです。何故なら、先進国の中で最も国家の歴史が短いからです。アメリカが200年以上経っているのですが、日本は150年を超えた程度であり、しかも、移民という形で出来た国家とは違いますので理解しやすいと思います。

 

 何故、徳川が体制奉還したのか?という疑問は置いておいて、明治という時代になり、日本は初めて国家という体制になったのは誰もが知っている通りです。

 

 それまでは、アメリカ合衆国みたいに各藩の上に幕府があった大勢であり、それをそのまま国家に変えちゃダメだったのかという若干の疑問も残るわけです。

 

 とは言え、日本人にとって明治は初めて尽くしの時代であり、国家って何?というレベルであったことは想像に難くないと思います。

 

 そういう状況で国家を誰も信用しないし言う事を聞かないのは当然のことであり、現代人では考えられない世界だったことでしょう。そこで、そういう国民に国家を信じさせる洗脳が必要になるのです。

 

 もちろん、それを為すには教育となるわけで、そこから学校教育というモノが導入され、国家を信じさせるための洗脳が始まったわけです。

 

 今では誰もが当たり前のように通う学校ですが、当時は誰もが当たり前のようにいかないの学校だったのです。日本には寺子屋という立派な教育機関があったわけで、それで十分生きて生きていけるスキルを付けられたからそうなるのは当然でしょう。

 

 従って、学校へ行かない最大の理由は、学校へ行っても飯が食えるようにはならないという事になると思います。しかし、現在は正反対になっており、学校へ行かないと飯は食えないのです。

 

 学校へ行かなくても飯が食える社会を、学校へ行かない飯が食えない社会へと時間を掛けて変えて行くことで、国民を学校に通わせ政府を信じさせる洗脳を施せたという事です。

 

 そして、今では国家を信じる人が殆どとなっており、国家がなくなると自分たちが生きていけないと思う人が殆どとなります。

 

 それまで何の必要もなかった組織や社会を時間を掛けて必要と思わせ実際に必要になるように観光を変えて行く。そうすることで、それが人間社会だと思い込ませれば、何でもやりたい放題なのです。

 

 それでも、それが出来るのは多くの国民が飯を食えていればこそであり、それが壊れれば国家や教育の存在意義も失われるのです。今や学校を出ても仕事がない人は増えてきているのではないでしょうか?

 

 問題は、これから仕事は減る一方となるので、仮に収縮できても何れ失業という憂き目に遭う日が来るという事です。それは、給与の良い会社や就業年数が長いほどショックも大きくなるでしょう。

 

 日本企業がブラック化したのも、仕事が減っている証拠になると思います。仕事が減り失業が増えれば職場環境が悪化するのは必然であり、体調を壊す人も増えていること思います。

 

 そういう状況が起こるという事は、そこに無理があるからであり、その無理の根源は何かと言えば、人間にとって必要のない国家というモノを無理やり必要と思わせて国家の為に国民を働かせてきたという事があるのです。

 

 経済成長があり仕事が増え収入が増える時期にはそれは見えないことです。しかし、経済成長がなくなり衰退を始めると環境が変わり実態が露になるのです。

 

 高々150年ほど前に無理やり始めたことがダメになったからと言って大したことではないのですが、それが当たり前となってしまうと命に係わる大変なことになるわけです。

 

 国家が無くても地球という自然があれば人間は生きていけるのです。私たちに生きる糧を与えているのは地球という自然であり国家ではないのです。

 

 そんなの分かってるわい・・・と言われそうですが、それを分かっていない人が居るから問題なのです。それを分からなくしているのが政府が発行するお金という紙切れになります。「嘘はいけない

 

 地球という自然がタダて提供するモノを人間が勝手にお金という紙切れと交換する仕組みを作り、あたかもお金がそれを与えているという思い込みをさせることで、人間をお金に縛り付けているわけです。

 

 そして、人間はそのお金に踊らされて必要のないモノをたくさん得ることで豊かになっていると思い込んでいるのですが、その必要のないモノを得るために賭けた時間と労力には関心がないのです。

 

 そして、かけがえのない人生の二度とない時間を奪われ人生を棒に振っているのが実態であり、それは恐らく仕事を辞めなければ見えて来ない真実かもしれません。

 

 そして、最期に思うのは「一体何のために生きて来たのか?」「一体何のために働いて来たのか?」という疑問に苛まれることになるのです。

 

 そういう疑問が出て来るというのは騙された証拠だと言えるでしょう。そういう大切な疑問を考えさせないようにすることで人間を働く機械としてこき使うことが出来るのです。

 

 まさに、それを言っちゃお終いよって感じです。それは、それを言ったらお終いではなく、それを言われる人生がお終いという事なのです。

 

 まあ、そういう点で現代人は初めからお終いの人生を歩かされていることになるのかもしれません。人の人生をお終いにするのが学校教育と国家であることは、これで少しはご理解いただけるでしょうか?

 

 でも、それを理解することはこれまでの人生を亡き者にすることであり、それを受け入れるのは非常に難しいのかもしれません。しかし、実際はそれを受け入れないのが人生を亡き者にすることなのです。

 

 何故なら、亡き者である人生を捨てないという事であり、それでは本当の人生には死んでも辿り着かないからです。人間ですから誰でも間違えますが、その間違いを改めなければ、間違いのまま進むことになり、状況を改善することは出来ないからです。

 

 きっと、本来の人間であればそういうことはいともたやすく出来るのですが、学校教育で付けられるも一つの悪癖であるプライドというモノがそれを邪魔するのです。

 

 学校教育の用意周到さがそこに垣間見れるわけです。人のプライドを持たせると、そのプライドの根幹にあるモノは守られるのです。

 

 プライドと言うとなんかかっこよく聞こえるのですが、要は自分を縛る縄みたいなものであり、決してカッコ良い者ではなく、むしろ無様なことだと思います。

 

 それは飼い主に従順な犬になったようなものなのです。人間というのは最も自由な生き物であり、縄に繋がれてはいけないのです。言い換えれば、プライドが無いのが人間という事になります。

 

 まあ、こういうことも「アベコベ社会」の一つになるかもしれませんね。