一体ナゼ…お金持ち家庭の高学歴女性が「万引き依存症」になってしまった「悲惨な末路」(現代ビジネス)
高学歴難民という言葉が出来たのは知りませんでした。誰もが憧れる高学歴の先に何があるかがようやく白日の下にされされ始めたのでしょうか。
高学歴の人が何故「万引き依存症」になるのか分からない人が多いと思いますので、解説しようと思います。それは、学ぶという事がどういうことなのかを知れば分かると思います。
学んで知識を得ると綺麗な言葉で書いているから分かりませんが、それは他人の考えを盗むという事なのです。教科書に書いているから盗んで良いと勝手に思っているだけのこと。
この世で盗みが唯一合法とされているのが「学び」ということになるのです。しかし、それでも著作権などという知識を守る権利を設けているので、どこかにダメだという思いもあるのでしょう。
他人のモノを得ることは全て盗みの範疇という事です。私が「学び」を止めようという理由の一つはココにもあるのです。
自分で考えるとは自分で作り出すこと、それとは対照的に学ぶとはそれをしないで他人から盗むことです。確かに自分で作るより盗む方が楽で間違いがないので効率的だと思います。
しかし、それは自分で作るという事を放棄することになるのです。そして、何でもかんでも盗んで生きる盗賊人間になる。特に今や情報社会であり情報は盗み放題となっているので便利だと思います。
実は資本主義社会は盗みで成り立っているという事になるのです。
ただ、お金という紙切れと交換することで、盗みを正当化しているに過ぎないのです。そもそも、お金という紙切れはどうやって手に入れているのかを考えれば分かると思います。
100円のモノを100円で手に入れれば、お金は得られない。それを100円より高く売ることでお金を得ることが出来る。これは詐欺と同じなのです。
こうしてお金を奪う事が当たり前の世界になっている。当たり前になると罪の意識も無くなる。そして、それが商売というモノだと威張るわけです。
そして、たくさん人を騙してお金を奪った人間が賞賛される。
実におかしな世界だと思いませんか?
そういう世界が人間を幸せにするはずもないことは小学生にだって分かることだと思います。それが分からない大人ばかり。要は世界は小学生以下のバカばかりということです。
当然、そういう大人を作ったのが学校教育という洗脳になるのは言うまでもありません。
そういう中でも高学歴というのは、盗み癖が強烈についているという事になるのです。だから、万引きをすることにもなる。それは癖だから中々止められないのです。
こうやって本質を見て行けば理由は明確になるのですが、マスコミにその力はないので、そこは触れていない。単に「何故」という疑問符しかつかないことになるでしょう。
もちろん、当人だってそれは分からない。そして、「自分は罪深い人間」となやっみ苦しむことになると思います。学校教育で学びを強要された現代人の特徴です。
「お前は修道女か!!!」って突っ込みたくなるのですが^^;
神という怪しい存在に身を捧げる修道女なら、そういう発想があっても良いと思いますが、私たち人間は日々成長し下手したら神を追い越すことも出来る存在なのです。
何故、それが出来るかと言えば、神の教えで生きるのではなく「自分で考えて行動する」からなのです。
自分は何故そう思うのか?
自分は何故層のような行動を取るのか?
そもそも、自分は言った何がしたのか?←全ての人間が答えなければいけない宿題=宿命なのです。一般にはそれを人生の目的と呼んでいます。
それが、モノを盗むことであればそれでも良いのですが、それは目的ではなく手段でしかない。そして、手段を目的にすると生きるのが辛く苦しいモノになるのです。
だって、それが目的に遭った手段であるかどうか分からないから。ある意味、その手段を頑張っても目的が達成されなければ、それは手段ではなかったという事になるのです。
その判断をするのがとても大事なことです。
でも、手段を目的にすることで、そういう判断をすることは無くなる。これが人生を地獄にする要因となります。
人は一度決めたことだから・・・・という言葉で誤魔化すのですが、一度決めたのなら何度でも決め直すことは出来るし、結果に応じてやるべきなのです。
しかし、それが目的となってしまえば一度決めた目的は変えられないのでそう言ってしまうのです。
そして、地獄の中で仏を探す。仏とは他人のことです。学びというのは他人の教えであり、そもそも、学ぶ人は他人への依存が高い人となります。
>最近は、研究の悩みについて、相談できる人が身近にいなくても、
>SNSの仲間で共有できるようになりました。私たち高学歴難民は
>マイノリティですから、仲間や共感してくれる人とどうつながって
>いくかが、生き残るための課題でしょうね。
となり他人に騙されて生き続けることになります。もちろん、神様みたいな他人に出会えれば救いとなることもあるでしょうが、それは単なる騙しに過ぎません。
酒を飲んで忘れるのと同じ程度、麻薬をやって忘れるのと同じことなのです。
学ぶことの最大の危険は何度も書いていますが、本当の自分という生きる糧を失う事にあります。全てを決断できる本当の自分が居ないから、他人を頼るしかないのです。
そもそも、人は皆違うわけで、他人が自分の事を理解しているハズはないのです。それでも、何とか信じれる部分を見出し他人に相談するのでしょうが・・・
その時点で自分の人生を捨てていることには気づかないのです。
人生に勝ちも負けもないし成功も失敗もないのですが、学ぶ人にはそれは分からないでしょう。そして、存在しない勝ちや成功を目指すことで人生を棒に振るのです。
人生とは何かと言えば、やりたいことをやる為にあるのです。それを一般に使命と呼ぶのですが、人間は神様が好きで神様が決めたことを使命と呼んでいる様です。
だから誰もが修道女となって辛く苦しい人生を送るのです。そして、神様を信じない人は学校で教わる勝者と成功を目指すことになるのです。
神様に騙され、先生に騙され、辛く苦しい人生を彷徨っているのが現代人だと言えるでしょう。何事も時が答えを出してくれるのです。時間が経たないと本当のことは分からない。
だから、昔の人は何も知れないのです。只々、こうすれば良くなるのではないかという思いだけで行動してしまう。本当はその結果を知る現代人は、それではいけないことに気づかないといけないのです。
しかし、昔の人の思いを学ぶので、それを受け継いでしまい、それから得られた結果に目を向けない。何も知らない昔の人が正しいから、人間が悪いとなり、人間を矯正しようとするのです。
学ぶリスクはココにもあるのです。学ぶという事はそれが正しいから学ぶのであり、それの間違いを指摘することが出来ない。そして、間違っているのが結果だと、結果を出す人間だとなるのです。
矯正とは殺人と同じです。その行動が時間を掛けて人を減らしていく。だから、学ぶことで人間は滅亡することになるのです。
人間という生き物を知らないから信じられないのでしょう。それは自分という人間が居ないから分からないのです。先生と神様に則られた人間。
それは素晴らしい人間に見えるかもしれませんが、それは人間の存在を否定することなのです。良かれと思うのは仕方ありませんが、それがいったいどういう意味を持つのかを考えないと思うような結果は出ないのです。
学ぶ人はこれが出来ません。学ぶという事は結果は決まっているのです。その結果を出すために学ぶのですから。だから、思うような結果が出なくても学んだことのせいにはしない。
そもそも、何故という疑問を持たないので、あろうことか結果がおかしいとしか思えないのです。結果とは何か・・・人間の結果は老後と子どもたちになります。
彼らをキチンと観察すれば世の問題はすべて明らかになるでしょう。しかし、学んだ人は、そういう人間は異常であり排除や治療の対象にしかならないかもしれません。
かつて言われていた腐ったミカンの方程式です。
大人というのは一人で生きれる人を言います。そういう人は何かに依存することはありません。当然、他人に相談する必要もない。
他人と関わる必要は基本的にはないのです。しかし、現代人はそれを孤独と言って揶揄します。それはまるで小学生のように。でも、揶揄する人たちは自分が小学生と同じであることには気づかないのです。
別に誰かに助けを求めることは悪い事ではありません。ただ、それをするということは自分が小学生である自覚を持たないとダメなのです。
そして、何時かは助けが要らない大人になることを目指さないと人生を心から楽しむことが出来ないのです。その為には学びを捨てるしか手はありません。
他人から盗んだモノで楽に生きているから何時まで経っても成長できないのです。だから、子どもみたいに何時まで経っても制約に苦しむことになるのです。
頭の中に、「してはいけない」とか「しなければいけない」という他人からの命令が蔓延っている内は子どもなのです。早くそういう制約から解放されて自由と無限を楽しめる大人になりましょう。
それをかなえてくれるのが「自分で考えて行動する」ということになります。念仏のように自分に唱えても良いかもしれません^^;