Quouraでの回答を転載します。何かのお役に立てれば幸いです。

 

 なぜ、私はどうでもいいはずのことに憤るのでしょうか?本来は、人間は間違ってもいいし、非難してもいいし、傷つけあっでもいい、なんでもいいわけです。変な世界に生まれたことを受け入れられないのはなぜなのか。

 

 折角、何故・・・という事を思ったのに、その答えを導き出せないからです。人には他の動物と違うとてつもない能力が備わっているのです。それは考える力です。考えるとは想像力のことです。曽於想像力が何故に対する答えを導き出す。

 

 しかし、現代人は学校で学びを強要され考える力を失っているので、何故に対する答えを導き出せないから苦しむことになるわけです。そういう人間の多くは、答えが導き出せないので善悪という物差しを使って解決しようとするわけです。

 

 それもまた自分を苦しめることになるのですが・・・・

 

 何故、何故という疑問を自分で作ったのに、その答えを自分で求めようとしないのか?

 

 この自分に対する責任を放棄するようでは明日という未来を手に入れることは出来ない。その結果、前に進めなくなり、最後は絶望することになるのです。

 

 別に学校のテストではないので、すぐ答える必要はありません。その答えを見つけるために長い人生があるわけですから。じっくりと考えて答えを見つけ出せば良いのです。見つけるというより作るという方が正しいでしょう。

 

 私の答えを言わせてもらえば、疑問1の憤るのは、子どもだからです。見た目は大人でも中身が育っていない子どもだから、どうでも良い事で憤るのです。大人はそんなことをしません。

 

 疑問2のこの世界を受け入れられないのは、この世界が偽物だからです。変な世界と書いている時点で答えは出ていると思います。

 

 そして、それぞれの答えから自分が取る行動が見えて来る。子どもであれば、どうすれば大人になれるかを考えて行動すれば良い。この世界が嘘であるならば、本当の世界を探すか作れば良いとなります。

 

 疑問というのは自分の人生の道しるべを与えてくれるものです。

 

 従って、疑問を持たない人は明日へ進むことは出来ません。死ぬまで同じところに居ることになるでしょう。当然、自分が持った疑問に答えられない場合もそうなります。

 

 現代人は学校で学ぶ癖がつけられているので、答えの載っている教科書を探すことしか出来ません。情報社会というのは膨大な教科書を意味するので、その答えには事欠かないと思うのでしょうが、誰かが出した答えには何の意味も価値もないのです。

 

 何故なら、人は皆違うから。人は皆違う答えを持っているからです。そこに他人の答えを拝借すると自分の人生は消えてしまいます。拝借した時点で、他人の人生と同化してしまうのです。

 

 これが何をもたらすか?

 

 端的に言えば、自分を殺す事になるのです。だって、自分が生きるべき自分の人生が消えたのだから、自分という人間も消えるし、自分の存在価値も消えるのは当然のことだと思います。

 

 現代人は自分が何をやっているのかを殆ど知りません。もちろん、何をしたいかもありません。

 

 何故なら、学ぶことで生きて来たから。全てを参考書に頼って生きて来たからです。要は他人のいう通りに生きて来たので、それがどういう意味をもたらすかを知る由もないのです。

 

 まだ、何故という疑問を持てるのは救いとなります。今や多くの現代人には、何故という疑問はないと思います。正解しか書いてない教科書に疑問を挟む余地はないので、そうなるのです。

 

 当然、それが何をもたらすかも知らない・・・・それはまるで子どもの様に。

 

 それは、とても恐ろしい事だと思います。

 

 何も変えないのですから、運命は決定しているということです。もちろん、繁栄ではありません。その先にある答えは滅亡となります。繁栄があるのは改善されるからであり、それのない未来は滅亡しかないのです。

 

 最後は恐ろしい話になりましたが、これが我々の真実です。

 

 きっと、全ての何故に答えて行けば、こうなると思います。もちろん、それを打開する手立てはあります。それも、何故に答えて行けば分かることです。