自己肯定感という言葉に違和感があるのですが、それはともかく、今やこの言葉にさいなまれている方は多いのではないかと思います。

 

 自己肯定感という言葉は新しい言葉と思えたのですが、作られたのは今から30年以上も前のようです。この世に生きている人間は全て自己があり、それを認めることで生きていけるわけで、それは誰もが当たり前に出来ていたから、言葉としての存在がなかったのです。

 

 しかし、30年ほど前に、本来当たり前にあるそれが欠落していると言えるような人が見つけられたことで、こういう新しい言葉が誕生することになる。

 

 人間は、何かを失うことで、その失ったモノの価値を再認識することが出来るという悪癖によって常に後悔させられるわけです。それはまだ、人間に伸びしろがあるという意味でもある気がします。

 

 私が思うに発見されたのは30年前ですが、実際に出現したのは更に古いのではないかと思います。30年前と言えば、確か初めて花粉症という名前が登場したころでありますが、50年前から春先から得たいの知れない鼻水に悩まされていた私が、そういうことだったのかと合点したことを思い出しました。

 

 このように、現実と発見の間には常にタイムラグがあるわけで、きっと、自己肯定感という言葉についても、現実はそれより前から起こっていたのではないかと思います。

 

 それが最初に起こったのは、あの激しい学生運動であったと思うわけです。ああいう集団暴力的な活動も、何かが欠落することで引き起こされる行動であり、自己を肯定できないことへの苦しみがそうさせたのではないかと思います。

 

 時を同じくして始まるのが、校内暴力であろうと思います。学生運動に触発されたのか、校内暴力の先に学生運動が起こったのかは定かではありませんが、当時の若者は今と違って苦しさを暴力で表現するという傾向がありました。

 

 暴走族の活動が活発だったのも同じころではないかと思います。子どもたちは一様に何かに怒っていた気がします。人間が起こる原因の基本は誰かに自己否定されることです。

 

 人は肯定されている限り非常におとなしい生き物だと言えるでしょう。従って、暴れる人の裏には常に自己否定があると言っても過言ではありません。

 

 さて、この頃の子どもたちを否定したものは何なのでしょう?

 

 答えは改めて書くまでもなく学校教育です。日本は戦後に大きな教育改革を施しました。基本的には天皇制を支えるある種の宗教教育から、民主制の中での人間教育に変わったのです。

 

 しかし、戦前教育ではそういう抵抗運動は殆ど起こっていません。それは、天皇を神だとする余りにもとぼけた内容であったために、国民も本音と建前の使い分けが出来たからではないかと思います。

 

 中には、熱心な信者もいましたが、大抵は冷めた目で調子を合わせていたのではないかと思います。そして、そこだけを注意すれば良かったわけで、意外と楽だったのではないでしょうか。

 

 しかし、戦後教育は人間教育と称し、個々人の内面へ入り込んできた。きっと、天皇制から民主制へという大転換を実現するには、国民意識を変えなければいけないという危機感があったからではないかと思います。

 

 そのために、一番力を入れたのが学力向上であったと思います。今後世界と戦うためには一人一人のスキルを上げていかなければいけないという思いからでしょう。

 

 これは、戦前教育にはなかった。もちろん、日本人を兵隊にしようという教育はされていますが、それは、別に全員を士官にしようということではなく、基本的には二等兵で良いのですから、戦争は嫌でも教育の圧力はなかったと思います。

 

 ところが、戦後は大きく異なる。それは、戦前教育に例えるなら、みんなに士官を目指せというとんでもない教育が施され始めたのです。

 

 軍隊で必要なのは圧倒的に下士官であり、士官は、数が少ないので、一部の有能な者だけで良いので、そこまで士官育成に力はいらない。

 

 下士官は下士官でたくさん必要がが、能力はさほど問わないので、厳しい教育は施されないのです。

 

 しかし、戦後は全員に士官を目指せと号令し、士官になったら高級優遇されると囃し立てたのです。そうすると、教育に対する圧が強くなるでしょう。

 

 教育とは何かといえば、一言で言えば自己否定です。無能であるから教育を施すわけで、有能であれば教育は要らないでしょう。

 

 だから、「こんな問題も解けないのか!」とバカにされ自己否定されるのです。それは、反発による向上も期待してのことなのでしょうが、そういう期待に応える人は少なく、大抵は、自己否定されることでグレたのではないでしょうか。

 

 新しい知識を知らないのは当たり前であり、それを理解できないとバカだと誹られる教育は、人間の尊厳を否定し続けるだけで、個人を確立することは出来ません。

 

 そういう学校教育を日本では戦後から初めてまもなく80年になろうとしているのです。そして、半世紀を過ぎたころから自己肯定感という新しい言葉が生まれたのです。

 

 自己否定され続けて半世紀を過ぎたことで表面化したということではないかと思います。戦後教育が始まって80年ということは、今日生きている殆どの人は、自己肯定感が学校で潰されているか、弱い状態にある人ばかりだということになるのです。

 

 実に恐ろしいことです。ほとんどの人が、人間が生きる上で最も大切な自己を確立できていないということなのです。それは、一億総子ども国家ということになる。

 

 日本国民に大人は居ないという結論が見えてくるのです。

 

 そう言えば、社会であれ、企業であれ、政府であれ、実に小学校の子どもたちと同じ状況のように見えないでしょうか。

 

 他人の立場でものを考えられない。自分の好き勝手な振る舞いをする。こうした自己による考えや行動が出来ない人ばかりであり、話し合いも出来なければコミュニケーションさえ困難な状況となっているのではないでしょうか。

 

 従って、未だに自己肯定感欠落問題は、その対処法はおろかその原因すら特定出来ていないのではないかと。そして、否定され続ける自己は最終的に消失してしまうのです。

 

 人間の体はオリジナリティに溢れていますが、脳はその中でも秀逸であり、外から施される教育という洗脳には最も弱いのです。それを80年にも渡って続けたせいで、日本人の脳は委縮している。

 

 見た目は華やかで分かりませんが、欧米人と同じように委縮して脳の機能が衰えてきているのです。こういう結果を突き付けられても、それが学校教育に依るものだとは気づけない。

 

 そもそも、これだけ社会に多くの問題を抱えていても、自分たちの無能に気づかないという恐ろしい状況となっているのです。

 

 そういう中でも、ここまで日本を良くしたのは自分たちであるという自惚れによって、これからも自分たちで改善できると盲進している危機的状況だと言えるでしょう。

 

 その一方で、脳の劣化および退化から脳が死んでいく人は年々増え続けており、今やがん以上に人々の関心を集めているのではないかと思います。

 

 そして、この危機的状況を立て直そうと、何と更なる高等教育を推進しようとしているのです。もはや日本の未来はないとしか思えないことを平気で行えるのです。

 

 こういう悪循環をもたらすのが学校教育の恐ろしさだと言えるでしょう。しかし、そう思い込んでいる人にそれをやめさせることは出来ません。

 

 後は、どこまで行けばそのことに気づく人が出てくるかということになるでしょう。場合によっては気づいた時には後の祭りとなる可能性もあるのではないかと思います。

 

 自己肯定感の欠落とは、言い換えれば自己の欠落であり、それはいろんな意味で厄介な状態と言えるでしょう。もちろん、自己の欠落と言っても生きている以上はそれはある。

 

 しかし、多くの場合、それは誰か他の人の自己であり、そのすり替わりに気づけないだけだと言えると思います。そして、少なくても他人にそれは分からない。

 

 それは、自分で見極めるしか手はないのです。その為には、疑うことが重要だと思います。自分を疑うことで見えてくるものがあれば、それが見極める機会となることでしょう。

 

 このように、言葉の誕生でその言葉の意味を知ることもできる。その言葉の歴史で見えてくるものもあるのではないでしょうか。言葉が誕生することで新たな歴史が作られるし、言葉を葬ることでもそれは起こるでしょう。

 

 嫌な言葉が増えるということは、それだけ社会が荒んでいるということであり、新しい言葉で古い言葉を上書きするとか、古い言葉を消し去ることで、我々が望む未来が手に入れられるかもしれないのです。