「体罰は教育の一環」と考える「旧時代の教師」が存在し続ける“根本的な原因”(現代ビジネス)
体罰が教育の一環と考える人は、体罰が何を教えるのかを知らない人なのです。それは、勉強を教える光景を思い浮かべれば容易に想像できるのではないでしょうか?
先生が生徒の前で何をやるかと言えば、例題を解くのです。手本を示すのです。そうやってやり方を教えることで生徒は理解する。
つまり、体罰で教えられるのは体罰だという事です。悪い事をしたときに叱る大人が多いのですが、それもまた間違いであり、叱ることで悪い事を知ることは出来ません。
叱ることで覚えるのは叱ることなのです。
何故、体罰をするかと言えば、答えは体罰をされたからなのです。何故、叱ると言えば、叱られたからです。何を教えたいのかを先ずは真剣に考えましょう。
何かを上手くやらせたいなら、上手くやる方法を見せてやればいい。困難に立ち向かう方法を教えたければ、困難に立ち向かう姿を見せてやれば良いのです。
この原則を知らない教育者が実に多い。一体、学校で何を習ったのかと思うのです。出来なければ、出来るまで繰り返し見せてやるしかないのです。
そこで体罰をしたら、体罰を覚えるし、叱れば叱りを覚える。
生徒は常に先生を見ていることを忘れてはいけないのです。未だに、体罰をする人が体罰をされた人であり、それだけ昔は体罰が横行していたという事なのです。
叱る教師も親も同じで、それだけ、昔からそういう事を知らずにやっていた人が多いという事です。それは、生徒目線で物事を見ていないという事だと思います。
子どもが叱られたらどう思うのか?どう感じるのか?
基本的に叱るという行為は相手を否定することであり、それは嫌いですよと言っていることなのです。子どもは叱られた内容ではなく、叱られたという事実にたじろぐのです。
今ではこういう事を書いている本も増えていると思いますが。忘れてはいけない人間関係の基本ではないかと思います。
人は知性の生き物ではなく感情の生き物であるということです。詐欺師が満面の笑みで近づいてくるのと同じように、大切な人とは最大限に仲良くなることが肝心なのです。
もちろん、それでも言う事は聞いてくれませんが^^;
それは詐欺師ではない証拠と言えるでしょう。でも、思いも依らないところで助けてくれたりする。それが家族なのではないでしょうか。