サッカー部暴力問題の秀岳館、学校側が生徒約1000人に謝罪「暴力許されない」3時間事情説明
学校という学びの場で、何故、暴力が使われるのか?何時まで経っても、教師も親も、そして子どもたちも分からないようだ。
その根本には教育が良いことであり、子どもの成長に必要だという思いというより信念があるからだと思う。
信念とは一つの思い込みであり、ソレは社会の至るところに蔓延している。もちろん、ソレを撒き散らしているのは学校であることは言うまでもない。
教育とは一体何をしているかと言えば、知識や情報を伝達しているのではなく、教師の信念を叩き込むことなのです。
憲法第19条に、思想や良心の自由を保証しながら、一方で学校ではそれを根底から覆す教育をしているということです。更に第23条には、教育の基本となる学問の自由があるのですが、子どもたちにその自由はない。
国家も法もでたらめであり、政府の好き勝手な解釈によって何でもありになっているのが日本という国ではないでしょうか?
そうした振る舞いは、横暴と言えるわけで、それは即ち弱い国民に対する暴力とも言えるのです。暴力を嫌う人が多いのですが、暴力を自ら生み出すことは出来ません。
必ず、第三者から暴力を受けることで、人は暴力を知るのです。そして、横暴なる教育、理不尽なる教育は、我々にとって逃げることの出来ない最強の暴力と呼べるでしょう。
だから、学校には暴力が生まれる。学校で授業を受ける子どもたちの中から暴力的な子どもが誕生するのはその為だと言えるでしょう。
学校や教師は、個人の自由を許さない。この拘束が暴力の元になるのではないかと思います。そして、頼みもしない無用な教科を無理に学ばされるのは、子どもたちにとってはある種の拷問と呼べるかもしれません。
後は、それを優しい言葉でオブラートに包んで実行するか、歯に衣着せぬ言葉で叱責して行うかの違いだけです。前にも書いたように、頭が良い人は嘘が上手い人であり、言葉巧みに強制的な教育を続けるのです。
勉強することで立派な大人にはなれない。それは今の夜中を見れば分ると思います。自分勝手で自分の事しか考えられない大人ばかりで、他人を助ける余裕はなく、社会の事を考える暇もなく仕事に忙殺されている。
これが学校教育を受けた結果なのです。そこで楽しむ人は少ないでしょう。気持ちが晴れない大人は他人に当たり散らす。それが暴力となる。
暴力団を揶揄する人は多いですが、今や日本人自体が暴力団となっているのではないでしょうか?もちろん、暴力団みたいにバカではないので、暴力団と呼ばれることはない。
暴力はそこら中に蔓延しているのです。何故なら、それを暴力とは誰も聞いていないから。目に見えない暴力は許されるからなのでしょう。
そして、こうした一部の暴力教師が叩かれる。そうやって、暴力教師を叩く行動も充分暴力だと私は思うのです。しかし、それを正義という名前で呼び、言葉を変えて許される。
何とも理不尽な世界ではないかと思います。そして、その理不尽の根源は学校にあり、そこから社会へと蔓延していくのです。だから、それがある限りこの世界は変えられないという事です。

