学校教育を止めよう!と呼びかけたので、その理由を思いついたときに書いておこうと思います。

 

 今回は。寛容の精神についてです。

 

 人間は神様ではないので必ず間違いを犯します。だから、人間社会には「お互い様」という寛容の精神、互いに許し合う優しさが欠かせないわけです。

 

 しかし、昨今は、「お互い様」という事は無くなりました。それによって、人間社会はギスギスしたモノになっています。誰もがビクビクしながら生きているのかもしれません。

 

 何でそういう世の中になったんだろうとかねがね思っていたわけですが、今日それに気づいたので書くことにしました。

 

 これもまた学校教育のせいだったのです!

 

 学校では、善悪というモノを教えます。そして、良いことをしなさい。悪いことをしちゃだめですよと教えるわけです。まるで教会ですね^^;

 

 資本主義を布教する教会が学校ですから、本当の教会的な役回りも持っているのでしょう^^;

 

 そして、善行は褒められ、悪行は叱責されるわけです。きっと、悪人にしたくないという思いからそうするのでしょうが、誰だって、悪人になりたくないと思っているわけです、

 

 しかし、幼いこどもに善悪の区別がつくとは限らず、悪いことをしてしまうと先生に叱られるわけです。先生は叱ることで、良い子になると思っているのでしょうが、叱られたからやらないという人間は、叱られなくなるとやる人間になるわけです。

 

 それはともかく、そうやって悪行を叱責することで改善させようとする試みは、功を奏することなく、こどもたちに悪いことを叱責する習慣を持たせるわけです。

 

 それが成長するとバッシングの激しい社会になり、「お互い様」という互いに許し合う優しさのないギスギスした社会になるわけです。

 

 学校教育が最も拙いところは、このように「良かれと思ってやっている」ということなのです。そうやった先に、どういう人間になるのかが想像できないのです。

 

 全ての人が通う学校が、この社会を作っているのは間違いないでしょう。大抵の人は学校で教わったことが身に染みているはずです。だから、間違いや悪行は徹底的に叱責するわけです。

 

 しかし、面白いのは、悪行の果てに逮捕され裁判に掛けられると、犯罪に至った経緯というモノを嫌というほど調べられるのです。もし、それを犯罪を起こす前にやっていたら、未然に防げたのではないかと私は思います。

 

 犯罪の増加は、「お互い様」という寛容の心がなくなることで起こるのかもしれません。私たちは間違いを犯さない神様ではない。どんなに努力しても神様にはなれないのです。

 

 従って、お互いの間違いを許し合う優しさが必要であり、それが人を犯罪から引き戻すのではないかと思うのです。資本主義という「お金」が神様の世界は、人間にとって地獄ではないかと思います。

 

 日本では「地獄の沙汰も金次第」という言葉がありますが、金次第でどうにかなるこの世の中は地獄であるという事だと思います。

 

 それを作っているのが学校教育であることに、是非、気づいて欲しいと思うのです。私たちは人間であり、それは本来思いやりという優しい心も持つ特殊な生き物だと思うのです。

 

 そういう生き物を、お金の鬼に変えないために、学校教育を無くすべきなのです。