今日の日本に大きな影響をもたらせているのは、福沢諭吉だと思います。共に教育者であり、福沢諭吉は大学を作ったり、教育に関する本を書き、特に教科書にも出てくる「学問のススメ」は学校教育の後ろ盾になっているのではないかと思えるほどです。
一方、夏目漱石は留学して教育者の道を進むも、新聞社に入り文芸作品を書いた作家になっています。
いずれも、日本ではとても有名な人で、方や一万円札で使われ、方や千円札で使われた人です。
福沢諭吉は、「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」という名言を残しており、士農工商という身分制度のあった日本を、平等な社会にするために学問を進めたのではないかと思います。
しかし、あれから150年近くが経った今日、学問は人々を平等にするどころか、士農工商より酷い階級社会を作ろうとしているわけです。もし、福沢諭吉が現在にタイムスリップしたらなら愕然とすることでしょう^^;
そして、21世紀の無名の一般人が「学校で勉強するからバカになる」という福沢諭吉の間違いを指摘する本を書いたわけです^^;もちろん、無名であり誰も読んではくれませんが・・・
別にそのことを言いたいわけではありません^^;
実は、福沢諭吉と違って、夏目漱石には「私の個人主義」という本があるのです。「坊ちゃん」「吾輩は猫である」など文芸作品ばかりが注目されるのですが、私的には「私の個人主義」の方が余程価値ある作品ではないかと思うのです。
夏目漱石には、自身が東大を出て海外留学するくらいの余裕があったからなのでしょうが、福沢諭吉のような不平等感はなく、自分の人生をどう生きるかという哲学的な問いを大事にしていた感があります。
自分がどう生きるのか?何をして生きるのか?の答えを宝と称し、それは何としても見つけるべきだと、自分の人生を通して得た結論を書いているのです。
本来、それを見つける為に学問があるのだと私は思うのですが、実際は、その根源的な問いからどんどん離れていき、学問で得られる成果を得る方に向かっていったのではないかと思います。
もちろん、それは国家の意図によって学問が利用されることでそうなるのですが。それでも、夏目漱石は、母校の東大生に対して、ノーブレスオブリージに繋がるような公演を幾度となくしており、先日の東大での祝辞は驚くべきことでもないわけです。
しかし、かつてはそういう事を公演する人が居たので、東大出の人たちから革新官僚という国家を支える人材が輩出されましたが、今日では、あの祝辞が大きな話題になるほど、そういう話が珍しいという事なのです。
私の好きな言葉に「実るほど首を垂れる稲穂かな」というのがあります。本来、学問はこういう状況をもたらさなければならないと思うのです。きっと、福沢諭吉もそう思ったから学問を勧めたのでしょう。
しかし、学ぶという行為は能力を高めるのではなく、卑しめる行為だったということが学制交付して150年ほど経ってようやく分かってきたのではないかと思うのです。
理想と現実に違いはつきものです。良かれと思ってやったことが予想に反して悪い結果をもたらすことは普通にあることであり、だからこそ、常に検証し反省し改善しなければならない。
私は、人間の凄さはそこにあると思うのです。
「間違いを改めるに憚ることなかれ」という言葉があるのもそのためだと思います。学問で人は賢くなったと思い込み、間違うはずがないと、いや、これだけやっているのだからあり得ないと思うのでしょう。
賢い人は間違わない。と誰かが言ったのか、それとも自分で思い込んだのかは分かりませんが、賢い人とは、自分の間違いにいち早く築く人であり、だからこそ、いち早く修正でき難を逃れることが出来るのです。
ちょっと、人より点数が取れた程度で有頂天になっている。それだけ難しい問題を解いたからなのでしょうか。しかし、そんなに難しい問題を解けるなら、本当は有頂天になるのではなく、更なる難しい問題を解くべきではないかと思うのです。
今や我々は山のような問題に苦しんでいる。だけども、そうした問題を解決することが全く出来ない。出来ないだけではなく、新たな問題を発生させ、お手上げ状態になろうとしている。
そういう問題に苦しむのは常に末端にいる人たちであり、社会の財産である人たちだと私は思います。この先とういう未来になるのか決めるのは私たちであり、そうした問題にどう答えるかで決まるわけです。
福沢諭吉が居たなら、夏目漱石が居たなら、彼らはどう答えるのでしょうね。しかし、我々は間違いなく彼らよりは優れているのです。だって、彼らはスマホもインターネットも知らないわけで、考える条件が全く違う。
21世紀の未来人としては、22世紀の人たちへ明治とは違う新しい道を切り開き、流石ですねと言わせるべきだと思うのですが^^;