登山家の栗城史多さんがお亡くなりになりました。

 

 

栗城史多さん、エベレストで死亡。事務所が発表「遺体となり発見されました」

 

 

登山に疎い私ですら、9本の指を失ってなおエベレストに挑む彼の名前は知っておりました。どんな方なのか調べたこともあります。

 

 

深く哀悼の意を表します。

 

 

栗城さんの抱えておられる危機は、すでに専門家によって予見されていました。

 

 

栗城史多という不思議2

 

 

”栗城さん自身が追い込まれていくことです。応援する人たちは「次回がんばれ」と言いますが、このまま栗城さんが北壁や西稜にトライを続けて、ルート核心部の8000m以上に本当に突っ込んでしまったら、99.999%死にます。それでも応援できますか。


栗城さんは今のところ、そこには足を踏み入れない、ぎりぎりのラインで撤退するようにしていますが、今後はわからない。最近の栗城さんの行動や発言を見ると、ややバランスを欠いてきているように感じます。功を焦って無理をしてしまう可能性もあると思う。


そのときに応援していた人はきわめて後味の悪い思いをする。しかし応援に罪はない。本来後押しをしてはいけないところを誤認させて後押しをさせているのは栗城さんなのだから。”(以上引用)

 

 

栗城さんのチャレンジしているルートは、非常に難しいものであったようです。

 

 

イモトアヤコさんがすごい仕事をなさっているのも、もちろん彼女自身の尋常ならぬ身体能力や胆力の賜物と言えるのでしょうが、それを導いている登山家たちの戦略が優れているから登頂もし、生きて帰ってこれるのだということを思い知らされる上記ブログです。

 

 

”栗城さん自身がわかっているはず。本気で行けると考えているとしたら、判断能力に深刻な問題があると言わざるを得ない。ノーマルルートが峠のワインディングロードなら、北壁や西稜の無酸素単独は、トラックがビュンビュン通過する高速道路を200kmで逆走するようなもの。ところが、そんな違いは登山をやらない普通の人にはわからない。”(以上引用)

 

 

なんでも医療に重ね合わせて申し訳ありません(職業病です)が、緩和ケアも戦略が大切です。

 

末期中の末期になって症状緩和をしようとしてもやれることには限界があります。

 

あるいは問題が極大化してどうしようもなくなる前に、問題を解決してゆくことが重要です。

 

「危険なルートを辿らなくするよう企図し、アシストすること」自体が、専門家の力であるし、その見えない力こそが大切だと思います。

 

その点で、命の危険を伴う登山も、高度進行がんの緩和ケアも似た部分があるのではないかとも感じました。

 

 

栗城さんの選択に感じたもやもやに既視感

 

インターネットでも栗城さんが亡くなったことには様々なコメントが記されています。

 

本望だったろう、というもの。

 

残念だった、というもの。

 

夢に殉じた、という視点から見れば、最高に幸せだろう、となりますし、

 

命はそうは言っても重要、命がなかったら挑戦もできないではないか、という視点から見れば、そうは言っても……となります。

 

見る人によって意見が分かれる事象だと思います。

 

私には既視感があります。

 

と申しますのは、私の現場もこのような「何とも言えない」状況をしばしば迎えるからです。

 

末期がんで、余命は限られている状態。

 

抗がん剤などの治療がむしろ命を縮めるくらい身体が弱っている状況。

 

しかし患者さんは抗がん剤治療を熱望し、そこにある医療者も応え、縮命してしまう。

 

もちろん可能性はゼロではありません。

 

ひょっとすると抗がん剤が効いて、延命するかもしれない。

 

しかしそれだけ全身状態が弱っている中では、それは多くの場合叶いません。

 

それでも患者さんは「生きたい」「どうしても治療を受けたい」とおっしゃり、希望は叶えられます。そして迎える結末―。

 

それは本望かもしれません。

 

一方で、もしそこで夢に殉じずに、違うルートを選んでいたら、患者さんはもっと長く、また大切な人との時間を多く取ることができたはずです。

 

本当に夢に殉じることが正しいことだったのか。

 

それは正解がない問いです。

 

みている側としてはもやもやします。

 

「良かったかな」が半分、「これで本当に良かったのかな」が半分。

 

たくさん拝見して来て、この問題には答えがないことはよくわかっています。

 

それでも「これで良かったのか」そう思う気持ちは残ります。

 

自己の決定であえて歩んだのだから、好きなようにしたのだから。

 

そうも思えますが、一方で100%そうとも言えないとも感じます。

 

難しいです。

 

 

 

ぎりぎりの状態で人が迎える選択の原型 

 

「本人の思いを最重要視する立場」

 

「そうは言ってもあたら大切な命を縮めることは良くはないとする立場」

 

それぞれによっても感じることは異なるでしょう。

 

また、栗城さんのお父様が、インタビューに答えていらっしゃいました。

 

登山家・栗城さんエベレスト挑戦中に死亡 「今までよくがんばった」今金町の父親が語る 北海道

 

”「自分の好きなエベレストで消えた。ありがとうございます。皆さんに助けてもらって、"バカ野郎"とは言えない。よく今まで頑張ったと思う」”(以上引用)

 

お父様の心情はいかばかりかと思いますが、息子さんのことは誰よりもお父様が理解されていたのではないかとも感じるコメントです。

 

「家族のことを考えれば」というありきたりの言葉は似つかわしくないのかもしれませんが、それでも父親の立場ならば、きっと生きて帰って来てほしかっただろうとも一方では思います。

 

 

状況が厳しくなればなるほど、より難しい課題を設定する―

 

これは重い病気と向き合っている方の中にも、時として認められるものです。

 

栗城さんの挑戦と死が、私たちに様々な思いを抱かせるのも、ぎりぎりの状態で人が迎える選択の原型を提供しているがゆえであり、かき立てるもの多く、話題になりやすいという側面もあるのではないかと感じました。

 

誰かがコメントしていましたが、今はエベレストの頂にいるだろう、そう願いたいです。