初めて会った時は彼女は27歳。

 

 

震災のために、居住していた福島県の浜通りから中通りの病院に通うことが困難になり、東京のお姉さんを頼ってこちらに来られたのでした。

 

 

診断は「末期がん」

 

 

私にはあくまで症状緩和の依頼でした。

 

 

彼女のがんの発症は実に19歳でした。

 

 

私が彼女と会った時、彼女は既に8年も病魔と対峙していたのです。

 

 

腫瘍は次第に大きくなり、彼女の呼吸困難や痛みが強まりました。

 

 

最初の劇的な緩和はステロイドの使用で。

 

 

特殊な種類の腫瘍であることもあり、ステロイドが症状緩和を越えて奏効したのでした。1年以上も、症状が緩和されて元気な日々が続きました。

 

 

ステロイドの効きが悪くなった時、今度は局所放射線療法で。計4回。

 

 

これも症状緩和のみならず、年単位の余命を彼女にもたらしました。

 

 

一時具合が良くなり、一人住まいもされ、積極的にあちこちと出かけられていました。

 

 

墓も東京で、と希望するくらいこちらを気に入っていたのです。

 

 

しかしもとより、根治するすべはありません。

 

 

とうとうその日が来てしまいました。

 

 

転院先の緩和ケア病棟で、奇しくも東京に来るきっかけになった震災の日3月11日の前日に、彼女は東京で33歳の人生を閉じられました。

 

 

あまり多くを語らず強い精神力を示した彼女であり、弱音を吐くことはほとんどありませんでした。

 

 

5年間に、ただ二度。

 

 

一度は腫瘍が食道を押すがゆえの唾液すらも吐く状態で、

 

 

「なぜ私ばっかり。私だって人並みの生活をしたかった!」という慟哭の叫び。

 

 

そして今冬。動くとサチュレーションが60%台になり、入院を勧めた時に、

 

 

「それだけは絶対に嫌。もう嫌だよ! もう嫌だ・・・・・・」と言った時の強い光を帯びた哀しい瞳。

 

 

19歳で発症し、確かに多くの人が普通のように与えられるものが、彼女には与えられませんでした。

 

 

就職、結婚、育児。

 

 

配偶者や子供の愚痴を言う機会さえ供与されませんでした。

 

 

「人並みの生活をしたかった」という叫びの前に、言葉は無力でした。

 

 

ただそれでも、彼女の傍にはいつもお姉さんがいて、また甥御さんがいました。

 

 

家族の支えで、彼女は「末期がん」と診断されてさらに5年の日々を、生き抜かれたのです。

 

 

お礼の挨拶に来てくださったお姉さんは「まだ実感がない」と仰っていましたが、確かに普通に診察室に現れるのではないかと私も思ってしまいます。気がつけば、私にとっても最も長く拝見した”末期がん”の(診断が為されている)患者さんになっていました。

 

 

お姉さんは元気だった頃の写真を持って来られました。

 

 

病気は見た目をも変えてしまいます。

 

 

「私の昔の姿を忘れてしまったでしょう?」生前、お姉さんには冗談交じりでそう言っていたようです。

 

 

元気だった頃の写真は、「かわいいでしょう?」とお姉さんが言う通りでした。

 

 

彼女が元気に長く生きられるようにと考えた5年。

 

 

死者の声を聞くことはできませんから、彼女にとってそれがどうだったかを直接聞くことはできません。

 

 

お姉さんに、「5年間ありがとうございました。会えて良かったです」そうお伝えし、見送りました。言葉は彼女に向けてのものでもありました。