もともと、高度進行がんは死が迫るまで、比較的元気に見える病気です。

 

 

有名人の例を思い起こして頂ければわかりますように、亡くなる少し前まで元気そうな(ように一見思える)姿を見せていらっしゃった方はたくさんいます。

 

 

緩和ケアは病気を治す治療ではありません。

 

 

しかし苦痛をできる範囲で和らげ、可能な範囲で元気に思えたり、見えたりすることを維持する治療です。

 

 

ただ、厳然と病気は進行していますから、いつかその時はやって来ます。

 

 

最近、次第に、「ピンピンコロリ」という世間一般で言われる状態に、少しずつですが近づいてきているとも感じます。

 

 

特にステロイドを使用すると、亡くなる1〜2週間前までは比較的元気に見える(あるいは思える)ことも多いですから、ご本人は「もっと抗がん剤治療ができる」と思ったり望んだり、ご家族は「まだ大丈夫」「これならもっと病院で良くしてもらってから、家に帰って来てもらおう」などと思ったり希望されたりすることもごく普通にあります。

 

 

何べんも注意喚起しても、現実感がなく、まだまだいけると考えられる方も少なくありません。

 

 

そう考えたいのも当然だと思いますし、もちろんそれを責めているわけではありません。

 

 

ところが最後の経過はしばしば急峻です。

 

 

急に身の置き所のなさやせん妄が出始めると、数日内に時を迎えることもあります。

 

 

すると「なぜ」ということになります。

 

 

中には、特に医療者との関係が良くないと、医療が悪かったからかと思われてしまうこともあります。医療者との関係が良かったとしても、あまりに早い経過に驚いてしまいます。「あんなに元気だったのに、なぜ」と。

 

 

また、余命数日となって出て来る「身の置き所のなさ」せん妄は、一般的な薬剤が無効なことも多いですから、そこで初めて、世の中の方の一部がそれがモルヒネの効果だと誤解されている、「うとうとと眠ってもらって苦痛を和らげる」という”鎮静”の適応が生じます(★何度も書いていますので、読者の皆さんはもうおわかりだと存じますが、モルヒネは意識は「そのまま」で苦痛のみ取る治療です。従って”鎮静”薬ではありません。”鎮痛”薬です)。

 

 

逆に言えば、余命がまだ何週間もあって、意識を低下させずに苦痛を取る方法があるならば、わざわざ鎮静などしません。

 

 

他の方法が無効な、余命数日の、高度の苦痛やせん妄であるからこそ、鎮静は提案されるのです。

 

 

そこまで病気が進んでいるからこそ、それ以外に有効な方法がなくなるので、考慮されるのです。

 

 

 

緩和ケアが未発達な頃は、患者さんはそれなりに長い期間苦しまれることがありました。

 

 

痛みや息苦しさ、倦怠感や食欲不振などの苦痛に数か月以上、緩和されることなく生活されている方もいました。私の経験では10数年前は、それは珍しいことではありませんでした。

 

 

昔拝見した40代の末期がんの患者さんのお母さんは、「それでも息子は幸せです」とおっしゃいました。その方のご主人は、がんで年単位でずっと痛みに苦しめられたそうです。大腸がんの骨転移に対して、医療用麻薬すら使用されなかったのです。何十年も前の、緩和医療が未発達な時代だったからです。ベッド上でのたうち回り、それを支えた壮絶な数年間だったと聞きました。今はそのようなことは、適切な緩和医療を行う限り、ほぼ絶対にありません。

 

 

ところがそうやって緩和医療が普及してくると今度は、症状が緩和されて穏やかであったと考えられる自然な最期もまるで急死のように見え(緩和がうまくいっているからこそ直前まで元気なので)、「なぜ急に亡くなってしまったのだ」「どうして」「これでよかったのか」と悩まれる方が出て来るようになりました。これもそう思うのは確かに当然であり(前述のお母さんのように比較対象がなければわからないのが当然です)、難しいものです。

 

 

結論から言えば、どのような経過でも、人が亡くなるということは大変なことであり、ご本人もご家族も苦悩されるのです。

 

 

すごく元気なように見える、そんな緩和医療の進歩はまた、病気や死が近づいていることを受け止めにくくもし得るという新たな難しさと関係しているのではないかと感じることもあります。

 

 

ただ当然、痛みや苦しみで患者さんがのたうちまわり、医療者もいたたまれなかった時代よりは格段に良くなっているのです。

 

 

医療者も、元気に思えているあるいは見えている方に、うまく「今が大事な時間なのだ」と伝える、しばしば難儀なことを(その方の、あるいはご家族の、より良い時間のために)為さねばならないようになりました。

 

 

がんの患者さんの身体の苦痛が緩和されなかった時代は、望むように、やりたいことややるべきことをやって、というのは遠い夢でした。今でも地域によっては、そのような状況を漏れ聞きますが、それでも以前よりは変わってきていると思います。

 

 

今は、元気に思えるからこそ、実感がない、けれども突然終わりうる、「かけがえのない大切な時間」をそれと認識してもらうという大変さと現場は闘っています。

 

 

ある高度進行がんの方がこう言いました。

 

 

「先生、がんって最期は早いんだってね。私もそうなんだよね」

 

 

事も無げに言うので驚きましたが、その患者さんの主治医も、担当看護師も、非常にコミュニケーションスキルが高く、正しい情報を落胆させることなく、しかし真実味を持って感じ取ってもらう力に長けていることを私は思い出しました。

 

 

「担当の先生に聞いたのですか?」

 

 

「ええ。ちゃんとやることはしないとね」

 

 

伝え方がうまくいかないと「先生に、もう命が短いって言われちゃってさ」「ひどいよね」と脅かしのように表現されることもあるのですが、その方は過不足なくメッセージを受け取っておられるようでした。

 

 

元気に見えるからこその難しさ、またこの地平を乗り越えた時に、今度はどんな難しさが出て来るでしょうか。

 

 

ただ今、緩和医療の進歩とともに、直面している一つの問題はこのようなものであるのです。

 

 

緩和医療のアシストでもたらされている大切な時間をどうか悔いが残らないように使いきってほしい、そう願う日々です。