昨夜のクローズアップ現代+は臨床宗教師の話でした。

 

 

私も以前、病院付牧師と働いたことがあるため、宗教家が苦しむ人を、その宗教に勧誘するのではなく、その方自身の解決を見出すお手伝いをするという現場を何度も拝見してきました。

 

 

家族にしかできないこともありますし、医師にしかできないこともあります。看護師にしかできないこともあります。

 

 

生きる意味の揺らぎ、これは特に重い病気や障害に直面した時に顕在化するものですが、臨床宗教師はそれに対して家族や医療者とはまた違った立場で、それを和らげる可能性を持つ仕事であると私は思います。

 

 

今元気で生きていらっしゃる方には、あまりピンと来ないところもあるかもしれません。

 

 

「宗教」という言葉は、日本では良くないイメージをもって表現されるものでもあります。

 

 

しかし番組にも出ていらっしゃった田中先生や、あるいは亡くなられた岡部先生のような、終末期医療に携わる医師からの要請があって成立してきた仕事であることが重要です。

 

 

元気な時には考えもつかないことですが、重い病気になると、強く孤独を感じ、不安にさいなまれます。また生の長さがいよいよ限られていると感じた時に、人はしばしば「生きた意味」「生きている意味」を問うのです。

 

 

それを見ている医療者からすると、それを少しでも何とかできればと思いますし、その苦悩にできる範囲で対応するのが必要なことであり、また医療者だけでは対応が難しいこともあると認識されています。

 

 

実際にすい臓がんを患われた方のブログである「膵臓がんサバイバーへの挑戦」さんの下記のブログ内容はとても参考になります。

 

 

明日のクロ現+「“穏やかな死”を迎えたい ~医療と宗教 新たな試み~」

 

誰もが価値ある生を生きているにもかかわらず、絶望的な苦悩の中で、私たちはそれを見失うことがあります。

 

 

その時に、ただ傍にいて、話を聴いてくれる。

 

 

これはけして容易なことではなく、訓練と経験が必要です。

 

 

これは私個人の意見ですが、臨床宗教師は、患者さんと向き合う時に、「自身」の信仰が試されるのではないかと思います。

 

 

言うまでもなく、終末期医療の現場にいる医療者や、実際にそのような病気を患っている方、あるいはそれを支えている、あるいは支えたご家族の方々はきっとご存知のように、「人間」のできることはいつだって限られています。

 

 

無力感を味わうことだって、真剣に逝く人と接していれば、頻々と経験するに違いありません。

 

 

私自身も、人であることの限界を自覚しながら、日々緩和ケアに当たっていますが、一方でその自覚もまた必要なことなのだとも感じています。

 

 

ただ臨床宗教師も普及すると、また臨床宗教師のケアも必要になってくる可能性があると思いました。死にゆく方を支えるというのは並大抵のことではありません。

 

 

しかし支える側も一人ではありません。

 

 

家族が患者さんを支えることがあります。

 

 

家族が支えきれなかった部分を医師が支えることもあります。

 

 

医師が支えきれなかったけれども、看護師の◯◯さんが支えることもあります。

 

 

時には傾聴ボランティアの人、リハビリのスタッフ、以前の経験では掃除のお兄ちゃんなんてこともありました。

 

 

その中に、「死生観」について、躊躇せず聴ける存在として、また新しい仲間が加わったことは、私としては嬉しく思っております。

 

 

当院でも傾聴ボランティアとして、私が支えられなかった患者さんを、病棟スタッフとともに支えた太田さんの、このブログの記事は興味深いです。

 

 

臨床パストラルケア一日研修会に参加して

 

キッペス先生というスピリチュアルケアの大家の言葉の太田さんによるまとめ(のうち、自分が気付かされた部分のみ抜粋)。

 

 

「『ただ傾聴する』というのはやめなさい。それは傾聴ではない」

 

「私は役に立った」「私は何かをなしえた」という言葉が出てきたら本物ではありません

 

「祈りでスピリチュアルケアできるわけではない」

 

 

「必要のない時は関わらなくていい」

 

 

「病気の人、心が傷ついている人のおそばにいるには訓練が必要。訓練なしにできると思う人は相手に対して大変失礼です」

 

「自分の心を健全な方向へ導くことは、戦いです」

 

 

正直な話、身体の苦痛は和らげられても、それ以上は何もできないことは私にも良くあります。

 

しかし、求められていない時は早々と退出したりもしながら、タイミングが合った時に、そのような差し出された手を振り落とさず、包みたいと思いながら、時を待ちます。

 

それでもダメな時はダメ。タイミングと人が合えば、もしかすると、というのが実際なのではないか、少なくとも私はそう思っています。だからこそ、様々な職種の人が、様々な視点で関わることが良いのではないか、とも。

 

 

これから迎える多死社会。

 

 

このような苦しみやそれに対応すべく生まれた新しい職種があるのだということを、そしてまたそのような専門家だけが取り扱うものでもなく、誰でも、スピリチュアルケアの担い手となりうるのだということが知られてほしいと思います。