NHKの番組で終末期の鎮静が取り上げられたので、鎮静について様々な方が語られています。


鎮静とは、(現在の日本では)がんの患者さんで推定される余命が極めて短いと考えられる方が、耐え難い苦痛にさいなまれ、それが十分な緩和医療によっても緩和されない場合に、同意のうえに行われる方法です。


いくつか拝読したうえでの雑感を記します。



1つめ。中には安楽死と混同する反応が見受けられました。


安楽死とは、患者の死をもって苦痛を終結させる手段であり、患者を死なせることが目的です。


かつては治療の差し控えや中止を消極的安楽死と呼称する時代もありましたが、世界的には、安楽死は患者を死なせることであって目的が違うという考えになり、治療の差し控えや中止は消極的安楽死とは呼ばれないようになっています。


ゆえに


安楽死・・・患者の死をもって苦痛を終結させる手段


終末期鎮静・・・患者の苦痛を緩和する手段


とそれは全く別のものと考えるのが最近の考え方です。


死なせる目的で鎮静をするわけではないのですから、少なくとも最前線で働かれている医療者の方々は不用意に(世界的にもはや間違っている表現なので)安楽死と呼ぶことがないようにしないといけないでしょう。



2つめ。映像に出ていた新城拓也先生は高名な緩和医療医で、緩和医療の専門医です。


そのような高い緩和医療技術を持つ医師がもってしても、苦痛が緩和できなかった時に考える、というのもポイントなのですが、もしかするとそれがあまり伝わっていないのかもしれません。


鎮静「させられる」などという表現も見かけましたが、意識を低下させないで苦痛を緩和できればそれに越したことはなく、実際にそのような考えられる手段を行っ(てそれが無効であることを確認し)たうえで、鎮静は検討されるものです。



3つめ。確かに在宅の患者さんは鎮静の対象者が少ない印象が強くあります。


これは私が在宅医をしていたので、肌で感じたものです。


最近、終末期の身の置き所のなさは「せん妄」が大きな位置を占めていると考えられるようになりました。


これも確かに、在宅で生活している患者さんはせん妄が病院より一般に軽いです。


もしかすると在宅で生活している患者さんはせん妄が軽く身の置き所のなさが少ないため、鎮静をしなくても良い場合が多いのではないか、これが私の推測です。


ただ他にも、病院では医療者が密に観察している時間が長いですから、すると死が迫るにつれて一時的に苦しい時間はしばしば散見されるため、つらそうと認識される機会が在宅よりも多いのではないかという医療者側の要素もあるのかもしれません。


在宅でも、高度のせん妄などで身の置き所のない様態の患者さんは、少数ながら存在します。


ごく一部の在宅医療の先生が「鎮静は不要」と述べておられるのは、私はそれは言いすぎだと思います。


在宅においても、少数だけれども、あらゆる緩和手段でも緩和されない患者さんは必ずいます。


「鎮静は不要」と強く思い過ぎていると、患者さんの苦しみを(前臨死期のそのような耐え難い苦しみなどないと思っているために)見逃してしまうことがあり得ます。


患者さんにとっての最善を、もちろん患者さんやご家族と十分相談したうえで行うこと、少なくとも有効な手段を選択肢として持っておくことは良いことなのではないかと思うのですが、どうでしょうか。


正しく終末期鎮静の理解が広がることを心から願っております。