皆さん、こんにちは。大津です。



イスラム国の勢いが止まりません。



何かを信じがたい強さで信じるというものは、恐ろしいばかりの強さを持っているとしか言いようがありません。


善と悪の二元論に心の奥底まで染まった時、人が通常生きていると必ず遭遇する迷いが減じるのと同時に、疑いを知らない行動力は大きな飛躍を見せます。もちろん悪い方向にも。



誰かの害にならないことだと良いのですが、これまでも世界は何度も狂信的な振る舞いで大きな打撃を受けてきました。


(それにしても核兵器不拡散条約運用検討会議での核保有国の振る舞いはまるで子供です。持っているものは絶対手放さない一方で、持ってないものには認めない、というのはものすごい矛盾だと感じます。勝った者は70年経ってもその権益を手放しません。ロシアのラブロフ外相に至っては『(国連憲章の「旧敵国条項」にて)戦勝国のしたことは全て崇高で揺るぎないと述べられている。その法的意味は「何一つ触るな」ということだ』()なのだそうです。世界はこのような振る舞いのエゴイズムの中で運用されているのだとつくづく感じました)


さて、さすがに相対的には幸福な国である日本では、武力を用いて誰かを倒すということがないのはありがたい話です。



しかし盲信に近い信じ人が、自分の信じる人を批判する者に対し、激しく反応するさまをみていると、類する事象の萌芽は世の中の至る所に見られると感じます。



最近興味深かったブログ記事があったので紹介します。


高田のあたりまえノート


非常に興味深かったのは、下記の部分です。


(以下引用)


彼は、少し変な人で、それから、当時から、自分は医者に向かないと思ってずいぶん悩んでいたようなことを言っていましたけれど、今のように医学的におかしな奇説は言っていませんでした。

そのうち、彼が少し変なことを言うと、それに共鳴してリツイートする人たちが現れ、彼のまわりに、「いろんな医者にかかったけれど、あまり良くならない」とか、まあ、そんな経験を持つ人が集まりだして、いつのまにか、彼の周囲に、医者に不信感を持っている人のコミュニティができ始めました。そうこうしているうちに、信者と教祖のような感じになり、彼も、徐々に、普通の医学から見るとずいぶん変なことを言う頻度が高くなり、さらに、それに共鳴する、よりエキセントリックな信者が増えてきました。

おそらく、比較的穏当な医者に相談していたつもりだった初期のフォロアーたちは、彼がエキセントリックな主張をするようになった時点で離れていったのではないかと思います。そして、僕は、その頃、だんだん面倒な人になってきた彼をツイッターで批判して、その結果、彼にブロックされました。その後、彼の熱心なフォロアーたちは、彼を招いて、あちこちで講演会を主催したり、本を書くように促したり、そういう活動をしていきます。彼自身も、その過程で、さらに普通でない主張をするようになって行ったのでしょう。

(以上引用)


もちろんこの「彼」に当てはまる方は他にもいます。私も何度か取り上げているある方などは典型的にそうでしょう。


教祖は単独で教祖になるのではなく、信奉者がいて、それに「呼応して」振る舞うことで、さらに過激さを増し、次第にまっとうなところから外れていってしまうことが高田さんの描写には記されています。


ある偏った集団が形成されてゆく過程を説明するものとして興味深い報告だと思います。


このブログの読者さんは大部分が穏健な方だと思いますので、気をつけることとして、このような過激な論調、「他にはない斬新かつ真実の意見」「これが広まらないのは陰謀」というようなキーワードを唱える集まりの言うことは話半分で聞くということだと思います。


今やインターネット書店のアマゾンでも、特定の「強く信じる方々」がいる本のレビューは、信奉者の無批判のレビュー(あるいは布教のような活動)のおかげで、まったくあてになりません。


信じるということは良いことも持つ反面、心酔というまでに行ってしまうと、不利益を被る(なぜならばそのような話者は基本的に「あなたは騙されている」というところを煽るので、また陰謀論をかき立てるので、必要以上に「自分が騙され」「敵に迫害されている」と感じるため、生活のストレスが一面では増えると想定されるため)ことになりかねません。


私がもう一つ思ったのは、信じる人がいなければ、教祖は教祖たりえない、ということです。


教祖を信じる人がいるから教祖が成立し、また過激さを増すことを考えると、信じる人もまた重い責任を背負っていると私は思います。


世の中が良くなるためには、多くの方が善悪二元論に走らず、穏当な考え、熟考する姿勢が広まらねばならないのではないかと感じました。



それでは皆さん、また。
今日はやや警鐘めいたお話ではありましたが、転ばぬ先の杖と思い記しました。

いつもお読み頂き、ありがとうございます。
失礼します。