皆さん、こんにちは。大津です。


5月になりましたね。早いですね。


ゴールデンウィークも迫ってきましたね。


皆さんはどこかに行かれますか?


どうかご家族の皆さんと、くつろいだ時間をお過ごしください。


Aさんから頂戴したメッセージを紹介します。



(以下メッセージ)


大津さん

私の投稿を取り上げてくださり、有難うございました。

又勉強になりました。

以前、貴ブログにてご紹介いただいた、勝俣範之氏の「抗がん剤は効かないの罪」を読みました。

こちらも患者として正しく知ることへ、一歩近づいたような気がして、とても勉強になりました。

ところで先日新聞の記事で、早川一光氏が癌にかかり、その怖さについて話していらっしゃいました。

ご存知かと思いますが、90を超えられこれまで地域医療に携わり、多くの死や病を見届けた経験があるのにいざ自分が癌にかかると、夜も怖くて仕方がないほどの恐怖を味わったと仰っていました。

実際はそのようなものなのでしょうか。

以前も医師や癌患者が書かれた本のなかで、いざ自分が癌などにかかり命の期限や死というものを感じると、それまでの自分の死生観などはあくまでも観念で、吹き飛んでしまい、死の恐怖にさらされるようなことを述べられていました。

私自身、今そのような状況になったら、上記のような状態に自分がなるのは必至かと思われますが、今後少しでも死を意識しながら大事に生きることで、そのような心の乱れは少しは治まっていくのではないかと考えますが、甘いのでしょうか。

個人的に一番尊敬しているダライラマ14世が書かれた書物には、人の役に立つことを慈悲をもってできる限り行って生きていけば、死ぬ際も後悔はなく、よりハッピーに逝くことができるとあり、慈悲はハッピーに生きる上でのキーと感じておリますが、突如死を意識せざるおえない状況にたたされると、これは全く別問題なのか。

少し考えさせられました。

また肺癌で亡くなった父の言葉も再度思い出しました。

父は、自分の苦しみなどを滅多に口にしない人間でしたが、癌宣告を受け、手術後自分の病期を知った頃、「怖くてどうしたらいいかわからないんだ。」、「自分が肺癌にかかったのは夢かなと思う時がある。」と言っていました。

その当時、父とはその他色々な言葉を交わしましたが、この2つの言葉は今でも強烈に自分の記憶に残っています。

いつ死が訪れても良いように、1日1日悔いなく生きるというのは、言葉でこそいうのは簡単ですが、実に難しいことと思います。

ただ、利己主義的な態度を極力減らし、人のために役立つことを最優先して、日々正直に生きることができれば、少しでもそういった心の乱れは減らすことができることを信じたいです。

又だらだら長い文章となり失礼します。

引き続き勉強を続けたいと思います。
有難うございました。


(以上メッセージ)


Aさん、メッセージありがとうございました。

早川先生の記事は私も気になっていたので、取り上げました。


昨日もYahoo! のトップページに俳優の今井雅之さんが大腸がんステージⅣと診断されたお話が掲載されていました。

最近このような記事がYahoo! トップページのニュースで取り上げられることが多いですね。

今井雅之さんの会見に関するこの記事


今井雅之 末期がんを告白「生きてることがつらい」と涙


には「生きていることがつらい」というはっきりとした言葉で苦悩が語られています。


<一専門家としては、どこがつらいのだろうか……と思いがはせられるところです。苦痛が少なくなると良いですね>


重い病気や死の予感を前に、私は「迷い悩む」のが普通だと思います。

どれだけ三人称の死や、二人称の死(家族)を経験しても一人称の死(自分)は別だと言われています。

「心が乱れても良いのではないか」とも思います。

自分という存在が消滅することを前に、少しも惑わず怖くない、それはほとんどの方にとっては嘘になるのではないかと思います。

もちろん性格や年齢、これまでの人生の道程によって、それは大きく異なります。

しかしまったく怖くない、というのは熱心に何かを信じていたり、生まれ変わり(と来世での再会)を確信などしていない限りは、すなわち平均的な日本人にとってはなかなか難しいことなのではないかと思います。

というわけで、自分も多少は怖いです。もちろん。

ただ死の前の苦しみの怖さは、症状を和らげる医療―緩和医療ーが進歩しているので、世間一般の方がしばしば心配されるほどではありません。

一般に「死の恐怖」というと、死後の消滅や、地獄などがあるのではないかとの怖さの他に、死ぬまでにすごく苦しむのではないか、という死の前の苦しみも指していることがあるので、念のため書きました。


死を前に心は乱れる。

しかし、その乱れた心を見つめることもまた、最終的には自身の本当の思いに耳を傾けることになるのではないかと私は思うのです。

偽りの虚飾は消え失せ、裸の自分、裸の心がそこに見出されます。それは自分と向き合う、最後の、大切な時間となるのかもしれません。


「怖くてどうしたらいいかわからないんだ。」

「自分が肺癌にかかったのは夢かなと思う時がある。」

というお父様の言葉は、まさにむき出しのお父様の思いであったと感じます。

そしてまた、それを発する相手として息子さんであるAさんがいらっしゃったということは、お父様は良かったのではないかと思います。

むき出しの苦悩をまた、投げられる相手がいたわけです。

受け取ってもらえないと絶望していれば、投げることもできません。

包み隠さず自身の心を観照し、Aさんは受け取ってくれるだろうと、そのまま表現した言葉は、まさに真なるものだと思います。

偽りのない、誰もが死を前に直面する気持ちが、そこに表現されていると思います。


私たちはその気持ちと直面しつつも、「どうしたら良いのか」を常に考えます。

あるいは「何が”私にとって”良いのか」、あるいは「何が”家族にとって”良いのか」、と考えます。

『いい人生だったと言える10の習慣』では、3人のお子さんと最期の時間を家でともに過ごすことを決意された40代の女性のエピソードを紹介しました。

恐怖、無力感、絶望感を覚えながらも、手探りで、のちに力強くつかみ当てた彼女の最後の幸せでした。長年不仲で苦しんだご主人との和解も、最後に待っていました。

誰もが、恐怖や無力感、絶望感に心が100%占められているわけではなくて、ある時は希望も感じ、あるいは何かにすがることもあり、また冷静に「何が最良か」を考えて動いてみるときもあれば、立ちはだかる困難に感情的になってしまったりもする。

そのような揺れる心で、時間を過ごされることがむしろ普通なのではないかと思います。

それは悪いことではなくて、自然なことなのではないかと思います。


一方で、終末期に近づいた方が、「自身のために」してきたことはあまり意味を感じられず、一方で「人のために」してきたことを誇りに思って逝くということもしばしばあるものです。

ある人は「自分のためにしたことは消える。財産も、名誉も、私限り」

「でも人のためにとしてきたことは消えない、なぜならば、きっと誰かが私の思いを継いでくれるからだ」

とその方の真理にたどり着きました。


自分にとって本当に必要なものが、最後に見出されることはしばしばあります。

先述の40代の女性は「家族」

その方は「人のためにと行動すること」

であったのです。


結論として

「いつ死が訪れても良いように、1日1日悔いなく生きるというのは、言葉でこそいうのは簡単ですが、実に難しいことと思います」

というAさんの言葉は、まさしく正しいです。

私たちは困難と対峙せねばなりません。


ただ私は一度だけ生前お会いした、俳優の故・入川保則さんが教えてくださった言葉


「もともと苦しいものを、楽しいものに変えていく過程こそが人生なんだ」という言葉にならい、

「もともと難しいものを、楽しいものに変えていく過程こそが人生なんだ」と思います。


死を考えるということは、より良く生きることを考えることです。

せっかく生きるのだったらなるべく楽しいほうが良い。

苦しいことがあるのがむしろ普通なんだから、それすらもうまく楽しさに変えてしまうことはできないか。

人は他の動物と同じように死する運命を持っていますが、未来をわかることのひきかえに不安や恐怖を得る一方で、運命を本能ではなく発達した大脳新皮質でいかようにも解釈できる強さもまた併せ持っているのだと思います。

そして、死を前にした心の乱れもまた、乱れの「あるがまま」を受け止め、しかし乱れの奴隷になることなしに、揺れる心をじっくりと見つめ、そこから何か大切なものを見出すことができるのも、人の持つ力だと、力強い生の完結を見るたびに私は思います。



それでは皆さん、また。
失礼します。