皆さん、こんにちは。大津です。



ブーム(?)が終わった後に手を伸ばすのが好きです。







『マッサンとリタ』(オリーヴ・チェックランド・和気洋子訳)<NHK出版>を読みました。


マッサンとリタについては改めての解説は不要と思います。


ニッカウヰスキーの創始者である竹鶴政孝さんと、その奥さんであるリタさんの話は、先のNHK連続テレビ小説「マッサン」で描かれ、(リタさんがモデルの)亀山エリー役をシャーロット・ケイト・フォックスさんが演じられて話題になったことは記憶に新しいでしょう。


本は、淡々とした筆致の中に、明治から昭和の時代を、国際結婚という当時珍しい関係に結ばれて、苦難の中に愛をもって生きた一組の夫婦の物語を浮かび上がらせるものでした。


いくつか印象的な部分があったので紹介します。


――クリスマス・パーティーの日、ついに政孝はリタにプロポーズする。この時彼は、「もしあなたが僕と結婚するつもりがあるのなら、僕はスコットランドに残ったっていいんだ」と話したという。「あなたの夢は、日本で本物のウイスキーを造ることなのでしょう。私はそのお手伝いがしたいの。私たちは、スコットランドにいてはいけないわ」とリタは答えた。(p62)


始まりの言葉。


2人の愛を感じる言葉です。


リタさんはこうして故郷から遠く離れた国にやって来られました。




――歳月が巡り人生の終わりを迎える頃、リタは故郷に宛ててこんな文面の手紙をしたためている。「老いていくのは孤独なことだけれども、自分の人生は自分でつくってきたのだということを忘れたくないわ」(p66)


リタさんは結婚後、故郷には第二次世界大戦前の2回しか帰っていません。


第二次世界大戦時に日本はイギリスの敵国となり、リタさんの家族はリタさんに帰ってくるように勧めましたが、彼女は日本に留まり、最後まで故郷に帰ることはありませんでした。


「自分の人生は自分でつくってきたのだということを忘れたくないわ」


という言葉は、強さと誇りを秘めた凛としたものを感じます。



敵国人として日本にあることは大きな苦難を意味しました。


リタさんは既に帰化していたので、日本人になっていました。しかし周囲はそう見ませんでした。


「警察が外出するリタを執拗につけ回し」「余市の街角で彼女が人々に唾を吐きかけられたこと」もありました(p150)。

「わたし、心のなかはまったくの日本人になりきっているつもりです。いったい、このわたしのどこがいけないんです。……このごろ思うんです、わたしのこの鼻がもう少し低くなってくれたら、髪の毛や瞳が黒くあってくれれば……」彼女はマッサンにそう叫びました(同)。


苦衷を案じ、事業で成功した一番下の妹は、手紙を送り、こう手を差し伸べました。


「お姉さんは、もう十二分にマッサンに尽くしたわ。とっても偉いとは思うけど(略)だから、もしその気があって、チャンスもあったら、こっちにいらっしゃい。今の私の収入ならお姉さん一人ぐらいどうにかなるし、お姉さんも何かして私を助けてくれればいいじゃない。こんなことを勧めると怒るかもしれないわね。『私はそれでもマッサンのそばにいる……』って言うかしら」(p111)


彼女は帰りませんでした。


――同時代のスコットランド女性の多くが尻込みするような結婚に、家族や友人の反対を押し切り、彼女はその人生を賭けた。どうして、この誇りと信念を持った女性が、「自分は間違っていました」などと認められるだろうか。(略)竹鶴リタは、もちろん最愛の夫のいる日本に残った。彼女はただ息を潜めて、苦しい戦争をやり過ごす以外に道はなかったのである。(p111)



迷いもありました。心に揺れがなかったと言えば嘘になるでしょう。


特にリタさんのお母さんは、彼女の帰郷を望みました。


「齢を重ねるほどに、常にリタの里帰りを願い、そして祈り、したためる手紙には必ず娘に会いたいという思いを綴っている」(p150)


お母さんの子を思う気持ちが伝わってきます。お母さんの気持ちもまたいかばかりであったかと察せられます。


「彼女とスコットランドとを隔てていたのは、単にその距離だけではなかった。そこには、日本に住むスコットランドの女が真っ向から取り組む戦いがあった。彼女には、やりかけた仕事があり、始めたことを途中で投げ出すような女にだけは決してなりたくなかったのである」(p151)


敗戦国として大きな打撃を受け、戦後、日本人は海外渡航が困難になりました。


リタさんのお母さんは1956年、娘と会うことなく、生涯を終えられています。


「お母さんには、ずっと以前にさよならを言ったから」、妹さんの手紙にリタさんはそう短く書きました(p152)


一方で、自らの死が迫る時、リタさんは「あと一度でいいから、故郷に帰ることができたら」とも書き綴ったそうです(p152)。




昔の私には勇気があった

昔の私は大胆だった

昔の私はきれいだった

少なくとも人はそう言ってくれる


でも今

また若くなりたいとは思わない

年をとるのも悪くない

幸せを感じていたい

ただ、それだけ



彼女の、料理のレシピばかりが書いてあるノートに、記されていた短い文章です(p165)。


人生を、後ろを向くことなく駆け抜け、自らの仕事を果たし、穏やかな日々を幸せを感じて生きたいとの思いが静かに湛えられています。



1961年1月17日、彼女は日本で生涯を閉じられました。



彼女が支えたマッサンもまた、苦難の末に本物のウイスキーを日本に誕生させました。


まさにマッサンとリタさん、2人の力であったでしょう。リタさんの怯むことなかった勇気が実を結んだ結果がそれだと感じます。



マッサンの言葉。(p166)




昭和36年1月17日妻リタが急逝した。

英国留学中の私と結婚し、はるばる未知の国日本までやって来て、私より若いのに、先立った妻の運命がかわいそうでならなかった。

もし私とではなしに、英国人と結婚して英国で生活していたら、リタの妹たちのようにまだ生きていたのではないか、という思いが私の胸を締めつけた。




1979年、マッサンもこの世でのお役目を果たし、お2人は北海道余市の小高い丘の上で、はるかにスコットランドを望みながら、静かに眠っていらっしゃいます。




愛があれば人は強い。


そう書くと、何か陳腐なような気がします。


しかし極限の状態で、生きた方々を見る時、まさしくそうだと感じます。


マッサンとリタさんもまた、愛を与え合い、愛に支えられ、愛を全うし、力強く生きられた方たちだと感じました。



「自分と結婚しなかったらもっと長生きできたのに」


悔いるマッサンは、奥さんを心から思っていましたし、リタさんもそれを良くわかっていたのだと思います。


去来する故郷や家族への思いを胸に、彼女は自らの、自らが信じる愛を全うしたのです。



愛、家族、生きること、考えさせられます。


マッサンとリタさんはすごい例なのではないかと思いますが、私は臨床の現場において、多くの愛をいつも見聞きしています。


ちょっとした言葉に、ちょっとした仕草に、大切な人の愛を感じて、また困難に今日に明日に立ち向かっている方はたくさんいらっしゃると思います。


そんな小さな愛を感じられる心、それもまた大切なことなのではないかと思うのです。


そしてまた、小さな愛に誇りを持ってもらいたいと思うのです。自分が思うよりも小さくないかもしれませんよ。少なくとも、私はいつでもそう思います。


皆さんも、『マッサンとリタ』ご覧になってみてはいかがでしょうか?


それでは皆さん、また。
失礼します。





追伸 週刊朝日(5/1号)の「話題の新刊」コーナーで『死ぬまでに決断しておきたいこと20』が取り上げられています。

http://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2015042300068.html


書店、コンビニ等でそちらもご覧になって頂ければ幸いです。